Sanpouji Storyteller

交錯する都会の中で織りなす5人の男女の物語

眼鏡とベストとギンガムチェック(6)-霞の章Ⅱ

f:id:sanpouji:20190104151010j:plain

 

第6章

 

地下鉄の窓は残酷だ。メイクの彩度を落とし、目の下の隈やほうれい線を深くする。
吊革につかまった自分の顔は、老婆のようだと美佐は思う。
給料が振り込まれて、お金は一息つけたものの、音沙汰の無い武が心配でならない。
試しに口角を少し上げてみる。陰気な表情が歪んだだけだ。


自分の顔にうんざりして、前に座っている女性に視線を移した。
きっと同年代だろう。白いシャツに赤いカーディガン。
スマートフォンを見て笑みを浮かべている。
ちらっと盗み見ると海の画像だ。

そういえば私も去年、赤いカーディガン買ったんだっけ。
あの溌溂とした色を、今は着る気にもならない。
この顔で着たら還暦祝いだわ。
そう思いついて、美佐は自嘲的に少し笑った。

女性が立った席に腰を下ろして、美佐は深く息をついた。
浮きたつ気配が残っているようだった。
「やめたやめた。もう、どんよりするのは終わり」

赤いカーディガン
青いプジョー
あの時見えたフランス国旗を連想した。
あの時の、はしゃいだ気持ちに帰ろう。

美佐は携帯電話を取り出し、武にメールを打った。

---------武、なにはともあれ(笑) 今夜ご飯食べない?
この前ひろってくれた交差点に、
フレンチのお店があったじゃない、
行ってみようよ--------------


送信する指が止まった。
会うなら、もっと元気な顔して会わなきゃ、いい話はできない。
もっと元気になって、赤いカーディガン着て会いに行こう。
メールを保存して決心した。

 

f:id:sanpouji:20190115170049j:plain

 


「じんにーい!早く早く!」

武は、発車ベルが鳴る電車のドアが閉まらないよう、小さな半身を入れて叫んだ。

本当なら「ひとしおじさん」だけど、
父親が、年の離れた弟の仁を「じん」というのを真似て「仁兄、じんにい」と呼んでいた。

受け取ったばかりの駅弁を抱えて走ってきた仁は、そんな武を見るとふいに立ち止まった。そして、武を手招きし、ホームの駅員に頭を下げた。電車はドアを閉めて発車して行く。

「え?この電車じゃなかったの?」
いぶかる武の頭を、仁は笑ってトントンと叩いた。

「今日は駅を見よう」

二人は、ホームのベンチで駅弁を広げた。
厚焼き玉子を頬張りながら仁が聞く。

「俺たち今まで何個くらい駅弁食べたかな」
武は、20近くも年上の仁に「俺たち」と言われるのが、たまらく快感だった。

「20個は食べたね。30くらいかもしれない」
適当に言った。とにかくいっぱい食べたのだ。

「大阪のタヌキ蕎麦食べたのもおかしかったねえ。武が俺を責めてさあ」

「もう!それは謝ったじゃん。じんにいが注文間違えたと思ったんだよ」

「揚げ玉揚げ玉って大騒ぎしてさ、店中の客が振り返ったっけねえ」

「じんにいだって知らなかったくせに。お揚げ見てポカンとしてたじゃない」

笑っている二人の前を、電車が到着しては人が乗り降りし、また発車していく。

「ねえ武、電車ってね、気ままに走っているんじゃないんだ。
運行表っていうのがあって、それは、専門の人がすごく頭を使って作っている。
あの枕木も、一本ずつ誰かが点検しているし、この案内板が見やすいのも、
ホームにゴミがないのも、誰かが仕事しているからなんだ。
電車を走らせるのはね、運転手だけじゃない、たっくさんの人が仕事している。
たっくさんの人が、同じひとつのことを祈っている。
お客さんを安全に、約束通りに運ぶっていう約束を守ることなんだよ」


武は仁の穏やかな顔を見た。
一人っ子の武の、兄代わり。忙しい父親の父さん代わり。

「そっか。それなら、さっき僕がやってたのは、ルール違反だね」

仁は晴れやかに笑った。

「偉いぞ!さすが乗り鉄の甥だ。」

「ノリテツ?」

「大人の中にもルールを守らない人はたくさんいる。だけど俺たちは違う」

「ねえねえ、ノリテツって何?」

「それはまた今度だ。とにかく俺たちは、正しい乗り鉄乗り鉄の甥だ」



富士山が消えたって、こんなに驚かなかっただろう。
仁が失踪した後、武はしばらく口がきけなかった。
子どもの頃に比べたら機会は減ったけれど、何かにつけて連絡を取り合っていたのに
仁がそんな大それたことを考えているなんて、武は微塵も感じなかった。
家族親族はひとしきり大騒ぎしたももの、結局は
「心配するな」という置手紙にすがるしかなく
「まあ、仁のことだから、心配するのはやめよう」という結論を出した。
そして「ブラコンの武」を心配することに矛先が向き、
武はことさら平静をよそおわなくてはならなかった。

でも、いつも頭の中では繰り返している。仁兄、帰って来い。仁兄、帰って来い。
喪失感は痛みのように武を蝕んだ。
このままずっと、この痛みを抱えながら生きていくのか
仁兄は思い出になって、フェードアウトしていくのだろうか
その考えに囚われると、空気が薄くなったように苦しくなる。


 冴ちゃん、冴ちゃんは急にいなくなったりしないよね
 まーた、その話?大丈夫、わたしはいなくならないよ
 絶対、絶対ダメだからね。いなくなるようになりたくなったらオレに教えてね
 もー。言い方変だよ。とにかく、私はいなくなりませーん

f:id:sanpouji:20190115165002j:plain


この3年間、本心を言えるのは、恋人と酒に酔う時だけだった。
冴は何も言わないけれど、もう、将来のことを考えたいだろう。

武も冴と生きていきたいと思っていた。

人間不信になりそうな自分を支えてくれるのも冴だ。
問題は、この痛みだ。あえぐほどの苦しさだ。


仁兄の携帯電話番号もメールアドレスも当然ながら通じない。
唯一、細いラインがあるとしたら、武自身のブログだった。
「武は面白いこと書くなあ。文章も上手いぞ。書け書け、いっぱい書け」
仁兄が誉めてくれるのが嬉しくて書き続けてきた。失踪してからは更に熱心に書いた。
そしてある方法を思いついた。
やってみよう。武は決心した。2ヶ月くらい前になる

【尋ね人】

突然ですが、
この人の居場所を教えてくれた人に100万円差し上げます。
下記のアドレスに直メールください。

そして、仁兄の写真を添付してブログに上げた。


仕事の介護用品の記事はあるが、自分を特定するブログではない。
メールアドレスも取得したばかりのものだ。
SNSの怖さは知っているが、これなら危険はないだろう。
写真は、武の成人式の後、仁が友人たちとの飲み会に連れて行ってくれた時のものだ。
端に小さく自分が映り、友人たちがグラスをあおったり煙草を吸ったりししている、不鮮明な紙焼きの写真だ。
それをスマートフォンで写して仁だけトリミングした。
仁は斜め後ろ姿で逆光を受けている。
ほとんど人相はわからない。わからなくていい。
下手に拡散して仁兄に何か危害が及んではいけない。
わかって欲しいのは、本人だけだ。


きっと仁兄はブログを今でも読んでくれている。
そして、この子どもじみた脅迫に、笑って降参してくれる。
仁兄が、仁兄ならば。


(武、ごめんな。ちゃんと説明するからこんなことしなくていいよ)
明け方の夢で、武は仁の懐かしい声を聞いた。

正夢か、逆夢か。現実は2通のメールから始まった