眼鏡とベストとギンガムチェック (11)-霞の章Ⅲ
第11章
「ブログ拝見しました。私の亡くなった祖父の若い頃に似ているんですが」…削除
「墨田区の探偵事務所です。詳細を伺えれば、当社のベテランスタッフが」…削除
「尋ね人」の反響だ。
「尋ね人」か「100万円差し上げます」が検索キーワードにひっかかっているのか。
受信メール47通。気が滅入る。
「見つけてやるから100万送れ」…削除
「この人、犯罪者?」…削除
「たけし、探してくれてありがとう」
鼓動が大きく鳴った。
たけし、探してくれてありがとう。
みんなは元気ですか。
たけしにも、みんなにもいつも会いたいと思っています。
でも、今の僕は、みんなに合わせる顔がありません。
こんな、僕が言うのも変ですが、
テープを切るまではわからないよ。たけしは幸せになってくれ。
プジョーが似合う男になってください。仁
プジョーを武に譲ると言い出した時、
父親が「武にこの車は早くないか」と反対した。仁兄は、早いかもしれないけど、と言って武に向き直り、
「武は、プジョーが似合う男になれ」と言った。
父親が「お前、カッコいいこと言うなあ」と笑った。
その場面を思い出しながら何度も読み返した。部屋を一周し、もう一度読み返す。
「テープを切るまではわからないよ」
というのは仁兄の口癖だった。
中学の体育祭だったか、仁兄がリレーのアンカーで、歓声を聞きながら悠々とテープを切ろうとした瞬間に、2位の走者に追い抜かれた話だ。
「あんなに悔やんだことはないよ。武、勝負するときは最後まで気を抜くな」
何度も言われた。受験の時も、就職活動の時も。
仁兄
メールありがとう。
仁兄は、きっとやりたいことがあって、ここを離れたのだと思っていました。
だから、いつか夢を叶えて帰ってきてくれると待っていたのです。
何があったんですか。俺にできることがあったら教えてください。
もし、お金ですむことなら
「金で済むなら」?羞恥のような感情が沸き上がり、最後の1行を消して「武」と添えた。送信した直後に受信のアラームが鳴った。
エラーレポート「User unknown…」
失踪の理由を、良いように解釈していた頃の方が、精神的にはまだ楽だった。
仁兄のメールを読んでから、眠る度に仁兄が夢に出る。
仁兄が血を流して助けを求めている。
ボロボロに汚れて頭を抱えて泣いている。とうとう武は眠れなくなった。
いたずらメールも後を絶たず、疲弊に輪をかける。
ブログの「尋ね人」の記事を削除し、ついでにそのメールアカウントも閉鎖しようと、メーラーを立ち上げて、武は頬を殴られたように固まった。
前略
一ノ瀬仁さん 東京生まれ 40代 理学療法士
お探しの方は、この人ですね。
私は、この数年、一ノ瀬さんと友人付き合いをしている者です。
ご本人の了解もなくご連絡さしあげるのは心苦しいのですが、
彼の現在の状態は看過し難いものがあり、決断いたしました。
仁さんは、ある事情で仕事を辞め、困窮した生活を送っておられます。
私を含め数人の友人で援助してきましたが、最近はご本人からの無心も頻回になり
交友関係も危うくなっています。
あなたは仁さんの甥御さんでいらっしゃいますね。
仁さんから、「甥っ子のブログが面白い」と言われて、時々拝読しておりました。
もし貴方に100万円のご用意があるなら、現状を変える一助となるかと思います。
ご連絡お待ちしております。
新島俊彦
困窮?友だちに無心をしてまわっている?
合わせる顔が無い、というのは、金のことだったのか。
数日間の心配や混乱が怒りに変わった。
プジョーの鍵を掴んで部屋を飛び出し、車に積んだ荷物を放り出して乗り込んだ。
売ってやる。売り飛ばして金にして、足しにさせろと言って新島何某に送り付けてやる。
そしてもう、二度と仁兄に会いたいなんて思わない。
もう、たくさんだ。もともと仁兄は、自分たちを捨てていったんだ。
俺だけがブラコンのまま、時間を止めているんだ。勝手に生きればいい。もう…。
悪態が尽きないうちに、明治通りの交差点で美佐に出会った。
金が必要なんだ。
言ったとたん、後悔した。いくら美佐にでも、仁兄が金に困っているなんて話はできない。
「いや、車がね、そろそろ買い換えてもいいかななんて」
しどろもどろ言い始めたとき、美佐が
「ごめん、話の途中だけど、あそこにちょっと用事があったんだ。車、5分くらい停められる?」
と、雑居ビルを指さした。美佐をおろして、焦って言い訳の続きを考える。
でも、戻ってきた美佐は、何も言わせない勢いで手にした封筒を差し出し、
―― しかしその手は、どんなふうに渡したらいいかと戸惑うように、不器用に乱れ、結局、鷲掴みにしたまま武の胸に押し当てて放した。
膝に落ちた封筒から、帯のない一万円札の束が見えた。
生々しく、禍々しい札の束。決して、友人同士で手渡されるべきではない「札束」。
おまえ正気か?こんなことするなよ!
危うく大きな声を出しそうになった時、脳裏に蘇ったのがギンガムチェックのリボンだった。突き返そうとする手が止まった。
吸った息を吐きだして、不覚にも目が熱くなった。
美佐を家の前で降ろして、あてもなく車を転がした。
本当にお金に困っていたわけではない。でも、痛いほどわかった。
人から金を渡されることの、苦しさ、無力感。
友達が対等の友達ではなくなる瞬間。
仁兄はこんな苦渋に慣れてしまっているのだろうか。
母親同士が学生時代の友人で、家が近かったこともあり、武と美佐は兄妹のように育った。小学校に入ったばかりの頃、武の家で一緒に遊んでいると、母親が、
「美佐ちゃんは、今日からうちに泊まるのよ」と言った。
どうして?いつまで?と聞いても、美佐はレゴブロックに夢中になっている。
美佐の二つに束ねた髪の、いつものピンクのギンガムチェックのリボンが、
その日はちょうちょの羽がトンボみたいに尖って、不恰好に歪んでいた。
美佐がぽつんと「トリタテが来るの」と言った。
「トリタテってなに?」
すかさず母親が割り込んだ。
「美佐ちゃん、リボンがとんがっちゃったね。ママは大忙しだったのかな。直してあげるね」
リボンをほどくと、美佐はレゴブロックを持ったまま、ぽろぽろと泣きだした。
リボンぐらいで泣かなくたっていいのに。武はびっくりして見ていた。
大人になって、一度だけ、美佐とその時の話をしたことがある。
美佐は、泣いたのは覚えているけれど、リボンのことは覚えていなかった。
代わりに、武が覚えていないことを覚えていた。
「武はね、あの時、作りかけのロボットを壊して、レゴブロックを全部私に貸してくれたんだよ」
「お父さんは、友達の保証人になっていたんだって。
お父さんは人を助けたのに、お父さんを助けてくれる人は誰もいなかった。
大きくなってからは、そんなものだろうなってわかったけど」
神様、魔法使い、正義の味方。
子どもの美佐はいろんなものにお祈りをした。
「だけど、わたしの家族は、結局ダメになった。
難病とか災害じゃない。たかがお金ですむことだったのにね」
助手席に置いた札束が、強烈な存在感を放っている。
これが欲しかったのは、あの時の美佐だった。
そして、今の武にとっては、悪夢やメールという恐怖の中で、唯一これだけが、武を現実に繫ぎ止める、杭のような確かさを持っていた。
決着をつけよう。仁兄が本当はどうしているのか、何故、困窮しているのか、
新島に会って、真相を知るのだ。
知ってから決断すればいい。助けるのか、決別するのか。
美佐、この確かさと負い目を借りるよ。そして必ず、決着をつけてから返しに行く。
美佐が鷲掴みした跡の残る封筒をポケットに収め、武はその重さに誓った。
「新島様 場所と日時をご指定下さい。お会いします」