Sanpouji Storyteller

交錯する都会の中で織りなす5人の男女の物語

眼鏡とベストとギンガムチェック(23)-羽の章<エピローグ> 

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 エピローグ ~吾郎の憂鬱~

 

 

 

 「ピンポン~、ピンポン~」

 玄関のドアフォンが何度も鳴っている気がした。でも眠気が勝って起きようとは思わなかった。

 

 「ピンポン~、ピンポン~」

 

 「うるさいな…」と思いながら、ソファーから起き上がって、壁にあるモニターを見るとサロナ出版社 編集部の宮戸 里奈の顔が写っていた。

 

 「いっけね…里奈さんだ…」と今日の9時に里奈がここへ来ることをすっかり忘れていた。ここのところ、ずっと徹夜で原稿を書いていたので相当心身ともに疲れていたのだろう。ついつい寝込んでしまったようだ。乱れた髪を整えへ、玄関を開けた。

 

 「あら、菊之丞さんいたの?」と花柄のワンピースに薄い黄色いカーディガンを着た里奈が玄関前に立っていた。

 

 「いつもながら、可憐で綺麗な方だな…」とうっとりしていたら、

 

 「音羽 菊之助 先生は今日はお留守かしら?」

 

 「ええ…ちょっと外出しています。」

 

 「あっそうなの…」

 

 「何かあったんですか?まあ、ここで立ち話もなんですから、どうぞ中へお入りください…あっ!ちょっと外で待ってください。」と今までソファーで寝ていた毛布や、テーブルにあった缶コーヒー、カップ麺の容器を慌てて片付け、消臭スプレーをかけた。

 

 「お待たせしました。どうぞ…」

 

 「大丈夫よ。こういう汚い作家の部屋に慣れているから…」

 

 「……」

 

 「これ、菊之助先生に渡しておいて。先日のネット小説【眼鏡とベストとギンガムチェック】の羽の章が完結したお礼の気持ち。編集長から菊之助先生にって…。ホレンディッシェ・カカオシュトゥーベのバームクーヘン…。まったく覚えられない名前ね…」と言いながら里奈は紙袋から取り出した。

 

 「あ…わざわざありがとうございます。うちの先生はバームクーヘンが好物で、特にここのは世界一美味いバームクーヘンだと言っています。」と頭をペコリと下げて受け取った。

 

 「でも菊之助先生って、まったく面倒くさい人よね…。掲載中も編集部に言いがかりをつけて来たのよ…。なんかこちらが言うと「女のくせに…」とか、「お前じゃ話にならん!編集長に変われ!」とか、「バームクーヘンを持って謝りに来い!」って、なんなのあのオヤジ!」

 

 「いつもご面倒をおかけして、すみません…」とコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

 

 「菊之丞さん…なんか菊之丞って言いづらいわね。本名が川田 吾郎だから「吾郎ちゃん」って呼んでいいかしら?私より年下だもんね…」

 

 「どうぞ、どうぞ。」

 

 「吾郎ちゃんは、よくあんな面倒な作家のアシスタントをやっているわね…もう何年やっているの?」

 

 「そうですね…7年?そのくらい経ってますかね…」

 

 「そんなに長く?その間、何人もアシスタントが辞めたじゃない…」

 

 「まあ、私はのんびりした性格なんでしょうか、あんまり先生から何か言われてもストレスを感じないタイプですから…。逆にそういう性格が先生を苛だたせる原因かもしれませんが…」

 

 「吾郎ちゃんは面白い人ね…」と里奈は淹れてもらったコーヒーをすすった。

 

 「ところで、今回の【眼鏡とベストとギンガムチェック】って、菊之助先生が書いたものじゃないでしょ?」と里奈は唐突に切り出したので、コーヒーを飲みこもうと思った吾郎は思わずむせてしまった。

 

 「馬鹿なこと言わないでくださいよ!あれはうちの先生が書いたものです。」と吾郎はソファーから立ち上がって、里奈に抗議の姿勢を見せた。

 

 「そんな嘘をつかなくても、うちの編集部内ではバレバレよ。だってこれって今までの菊之助先生の作風じゃないもん。あれは吾郎ちゃんが書いたんでしょ?それをちょこっと菊之助先生が添削して、あたかも自分の作品のようにしたことぐらい、私にだってわかるわよ…」

 

 「……」吾郎はなにも言えなかった。

 

 「まあ、そんなことはこの業界ではよくある話だからどうでもいいの。でも、今回の作品、私は好きよ。平成の終わりと箱根駅伝をうまく絡ませた内容だったわね。どうやってアイディアが浮かんだの?」

 

 「私がゴーストライターだってことは、ここだけの話にしてくださいよ。里奈さんだけにお話します。

 

 私は昨年末に寄席に行って「芝浜」って落語を聞いたんです。芝浜は年末になると必ず誰かがどこかで演じる有名な古典落語で、クラシック音楽で言えばベートーヴェンの第九みたいなものです。

 この芝浜の作者は明治の名人、近代の落語の祖と言われている三遊亭圓朝の三題噺が原作と言われています。三題噺とは、寄席で客から3つのお題を貰い、それらを絡めて、その場で作る即興落語なんですが、ある日客から、「酔漢」と「財布」と「芝浜」と言われて作った落語がこの芝浜なんです。

 

 年が明けた1月3日の夜に菊之助先生が貴社の新年会に参加したようで、そこで、【眼鏡とベストとギンガムチェック】ってお題で、ネット上でリレー小説をやることになったそうですね…。翌朝、先生から呼び出されて「俺は今、忙しいからこの企画はお前がゴーストになって書け。後で俺が見てやるから…」って言われて、決して私もな訳ではなかったのですが、渋々書き始めたのが今回の作品です。

 

 1月3日って前日から始まった箱根駅伝大会の復路の日で、東海大学青山学院大学の連覇を阻止して総合優勝をしたのをテレビで見て、私は感動したんです。

 一方でマスコミが年末ぐらいから「平成最後の〇〇」って耳にタコができるほど聞いていたので、じゃあ、箱根駅伝と平成の終わりをベースにした内容で、貴社から与えられた【眼鏡とベストとギンガムチェック】の3題を絡めてみようと考え始めたんです。

 1章は結末も考えずになんとなく書き始めて、特に先生から添削も入らず、ネットに公開したんです。2章目からは芝浜と同じ「夢」をオチにしよう思い付き、それからは話の展開のアイディアがどんどん湧いてきました。最終章まで一気に書き上げました。時間は取られましたが、楽しい貴重な体験をさせてもらったと思っています。」

 

 「へ…そうだったの。そのテーマと【眼鏡とベストとギンガムチェック】の3題を話の内容によく絡められたわね。ちょっとベストの絡み方はいささか強引だった気もするけどね…。眼鏡がなかなか絡んでこないから、どうなることかと思ったら、最終章で出てきたわね。箱根駅伝と平成の出来事が面白く絡まっていたと思うわ。

 ところで、結末で主人公の寺嶋秀幸が「なんだ夢か…」で終わったのは、秀幸が夢を見ていたことになると思うんだけど、どこからが夢だったのかしら?」と里奈が疑問を投げかけた。

 

 「里奈さん、いい質問ですね。各章で秀幸が寝込んでしまう場面が何度もあります。その寝込んだところが夢のスタートなんですが、どこからかは読者が勝手に推測していただければいいです。だから冒頭の平成元年の第65回箱根駅伝大会で秀幸がゴール直前で倒れたシーンがありましたでしょ。読みようによってはこれも夢だったと解釈してもいいのです。」

 

 「えっ!それじゃ、最初から最後まで全部夢だったってこと?」と里奈はコーヒーカップを口に近づけようとした手が止まった。

 

 「まあ、そのように捉えられても結構です。話の中で偶発過ぎるシーンが多かったじゃないですか、だからその考え方の方がいいかもしれませんね。」と吾郎は笑いながら言った。

 

 「面白い発想ね…。これまでの菊之助先生の作品より断然面白いわよ…」と里奈は残りのコーヒーを飲み干し、カップをソーサーの上に置いた。

 

 「長年多くの作家の編集作業をされてきた里奈さんにそう言っていただけると最高の褒め言葉になりますが、先生の前ではそんなこと口が裂けても言わないでくださいよ。」と吾郎は念を押した。

 

 「ところで、私4月からネット事業部から書籍編集部に異動になったの。吾郎ちゃんの今回の作品にもう少し肉付けしてもらって、本名の「川田 吾郎」著で書籍化して出版しない?絶対に売れるわよ!」と里奈が興奮した顔つきをした。

 

 「やめてくださいよ。そんなことしたら先生に破門されますから…。ネットとは言え、そもそも音羽 菊之助の名前で、同じタイトルで、ベースは同じ内容のものがすでに世の中に出てしまった作品じゃないですか…」

 

 「大丈夫よ…私に任せて。これから会社に戻って上司と相談してみるわ…」と吾郎が止めるのを振り切って里奈は事務所を出て行ってしまった。

 

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 里奈が会社に戻り、出版企画書を提案したところ、【眼鏡とベストとギンガムチェック】が書籍化されることが企画会議で決定された。

 

 最初から吾郎は師匠の菊之助をはばかって、書籍化することはためらっていたが、サロナ出版社の北條社長自らが菊之助を説得し、渋々、菊之助は首を縦に振った。

 

 それから半年の歳月をかけて、吾郎はネット小説の原文に肉付けをして、書籍に耐えうるページ数の原稿を書き上げた。そして今日がその書籍の発売日当日となった。タイトルは【眼鏡とベストとギンガムチェック】のままだった。

 

 初版1万部を発行し、発行元のサロナ出版社は総力を挙げて宣伝活動を実施した。新刊を紹介するテレビ番組にも嫌がる吾郎を里奈が無理やり出演させたり、書店でのサイン会の効果もあって、3か月で初版が売り切れたので、すぐに重版にかけられた。

 

 出版不況と言われる昨今、老若男女問わず爆発的な売れ行きが話題となり、吾郎は連日の取材攻勢や書店でのサイン会、マスコミへの出演と、本が出版されてからは今まで以上に寝る時間が削られ、ほとほと心身ともに疲れ切っていた。

 今日も明け方まで次回作の執筆作業に追われていたがいつの間にか吾郎はデスクにうつ伏せになって寝てしまった。

 

 スマホの電話の着信音がした。画面を見ると「宮戸 里奈」と表示されていた。慌てて電話に出ると、

 

 「吾郎ちゃん!大変よ!」

 

 「何ですか?こんな朝っぱらから…」と吾郎は不機嫌そうに言った。

 

 「朝って、もう10時よ…」と里奈の言葉に我に返った吾郎は壁の時計を見ると確かに10時を回っていた。仮眠のつもりがすっかり熟睡してしまったようだ。

 

 「吾郎ちゃん!驚かないでよ。なんと【眼鏡とベストとギンガムチェック】が本屋大賞を取ったのよ!」と里奈の興奮した声が受話器を通じて聞こえて来た。

 

 寝ぼけて聞いていた吾郎は、本屋大賞がどういうものかは作家の端くれをしているのでさすがに知っており、それに選ばれたと聞いて驚いた。

 

 「マジっすか?里奈さん!」

 

 「マジよ。大マジよ!うちの会社としても初めての本屋大賞受賞で北條社長も大喜びしているわ!」

 

 数日後、授賞式とその後のマスコミ向けの記者会見が都内のホテルで開かれることになった。普段の吾郎はほとんど事務所で寝泊まりしており、外出する用と言えばコンビニに買い物に行くこと以外はなく、そのために数年前に量販店で買った上下のヨレヨレのスエットで一日を過ごしていた。

 髪の毛はぼさぼさ、無精ひげをはやしている姿では記者会見に臨めないと、北條社長は吾郎に床屋に行くこと、その帰りにスーツとワイシャツ、ネクタイ、革靴を買ってくることを命じた。受賞のお祝いにということでその代金は北條社長が出費してくれた。

 

 記者会見当日を迎えた。緊張でまったく昨夜は眠ることができなかった。

 髪の毛を整え、ひげを剃り昨日買ったスーツ一式を着て、会場のホテルに着いた。北條社長と里奈がロビーで待っていた。

 

 「川田 吾郎 先生、ご到着をお待ちしておりました。この度の本屋大受賞おめでとうございます!出版元としても大変光栄に存じます。」と普段使わない言葉使いで北條社長が言った。

 

 「先生だなんて…」吾郎は照れ臭そうに言った。

 

 「吾郎ちゃんって、ヨレヨレのスエット姿で、髪はぼさぼさ、無精ひげのイメージしかなかったけど、今日のスーツ姿は別人ね。結構イケてるわよ。」と里奈が編集者としてではなく、女性の言葉として褒めてくれて、普段から里奈のことを好意に思っていた吾郎には胸が熱くなる言葉だった。

 

 「さあ、会場に行きましょう!」とすぐに仕事モードに戻った里奈を見て、吾郎は現実に戻された。

 

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 授賞式では緊張したが、吾郎の謝辞のスピーチは、あらかじめ里奈が作成してくれた原稿があったので、それを読むだけだったのでそつなく済んだ。

 

 会場が変わって、大勢のマスコミ陣の前での記者会見の場となった。記者会見は質問に答えるスタイルなので、口下手の吾郎を心配して、右隣には北條社長、左隣には里奈が同席してくれた。

 当初は作品に対する質問が多く、和やかな雰囲気で記者会見が進んでいた。質問が出し尽くした雰囲気を感じた司会者は、

 

 「ではそろそろ、お時間となりましたので、川田 吾郎 先生の本屋大賞受賞による記者会見をお開きにしたいと存じます…」と言った時に後方に座っていた男性記者がすっと手を挙げた。

 

 「最後にお聞きしてもいいですか?」とその男性記者は言った。吾郎たちの席からはライトを浴びているせいで、その男性記者の顔が見えなかった。

 

 「では、手短にどうぞ…」と司会者が言うと男性記者は立った瞬間に、社長の北條と里奈の顔が青ざめた。「オリムの編集長の小久保だ!」と二人はすぐにわかった。

 

 オリムとは、大物政治家や芸能人のスクープをすっぱ抜く雑誌【週刊オリム】のことで、出版元はオリム出版社であった。北條社長や里奈の会社のサロナ出版社もこれに抵抗する形で【週刊サロナ】を出版していた。

 

 長年続く出版不況で双方とも週刊誌の売上や広告収入が激減している中、少しでも数値を上げたいとの気持ちから、パパラッチによる決定的瞬間の過激なスクープ記事を掲載し、世間をあっと驚かせ、その記事により立場や権威を失う人、番組やCM出演を降板する芸能人など今までに多数出ている。逆に裏付け取材もろくにしないまま掲載をして、裁判沙汰になるケースもあり、取材合戦がヒートアップしていた。その【週刊オリム】の編集長の小久保が質問をし始めた。

 

 「今回の【眼鏡とベストとギンガムチェック】を拝読させていただきました。これって、半年前ぐらいに、音羽 菊之助 先生がネットに投稿したタイトルと同じで、内容も音羽先生が書かれたものをベースにただ肉付けしたものと思われます。これは明らかに盗作ではありませんか?」と小久保が言うと、場内は「ええ…」とざわめき出した。

 

 「そんなことはないです。」と吾郎が何かを言おうと思った直前にとっさに里奈は言った。

 

 「そんなことはないです…とは?」小久保が迫る勢いで聞いてきた。

 

 「ネットでの【眼鏡とベストとギンガムチェック】は音羽 菊之助 先生の名前で書かれていたものですが、ここにいる川田 吾郎 先生もアシスタントとして執筆活動を援助しておりました。いわば共著に等しいと言っても過言ではありません。すでに世間に名の通った音羽 菊之助の名前を前面に出した方がスポンサーも読者数も増えると思ったのでネット小説の方は単著としました。

 書籍化するに際して、川田先生の単著で出版することは当然ながら音羽 菊之助 先生の許可を得ましたので、何ら問題はないと思っています。」と里奈はうろたえることなく、小久保の目を見つめた。

 

 「本当に、音羽先生の許可を得ているのですね?」と小久保は怪しげに聞いた。

 

 「はい…」と里奈はきっぱり答えた。

 

 「では、これを聞いてもらいましょうか…」と小久保はスーツの胸ポケットから小型ボイスレコーダーを取り出し、持っていたマイクにそれを近づけて、再生ボタンを押した。すると菊之助の声がスピーカーを通して会場内に流れた。

 

 「書籍化された【眼鏡とベストとギンガムチェック】は、あれは川田の盗作です。ネット小説の際には確かに私の助手として執筆のサポートはしてもらいましたが、彼が執筆をしたものを私が添削して掲載したなんて、まるでゴーストライターのようなことをするなどあり得ない!とんでもないことで、この作品は私が書いたものです。

 書籍化することなどサロナ出版社から聞いていなかった。ましてや川田の名前で出版することを許すわけがない。まったく心外だ。これは著作権侵害問題だ。弁護士とも話し合って、近々、訴訟を起こす予定です。」小久保はここで「停止」ボタンを押し、引き続いて発言した。

 

 「これは私が、昨日音羽先生に取材した際の録音です。間違いなく音羽先生本人の声です。このような著作権侵害の疑惑がある本を本屋大賞にしていいんでしょうかねぇ…?」

 

 場内がより一層ざわめいた。

 

 「それは違う!我々は音羽先生にも許可を得て、書籍化をしたんだ!陰謀だ!」と北條社長が机をたたいて立ち上がった。一斉に記者たちのカメラのフラッシュが吾郎たちに向けてたかれた。隣にいる吾郎はまぶしくて手で顔を覆った。まったく予期しなかった出来事に吾郎は放心状態になっていた。

 

 「とりあえず、只今のご指摘はこちらで調査させていただきます。ひとまず本会見はこれにてお開きにさせていただきます。」と司会者が吾郎たちをこの場から立ち去るように促した。

 

 「北條社長、川田さん、どういうことですか?ちゃんと説明してくださいよ!」と記者たちは一斉に立ち上がって、吾郎たちを追うようにした。

 

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 吾郎は出版社が用意してくれたホテルで軟禁状態になっていた。昨日から吾郎のスマホには知らない電話番号や非通知の電話、メール、LINEなどのおびただしい数の着信履歴が残っていた。各局のテレビを付けると朝からワイドショーで、今回の盗作問題の話題で持ちきりだった。昨日この問題を指摘したオリム出版の小久保がテレビに出演して、今回のいきさつを解説していた。

 ついには里奈から勧められて出版後に開設した吾郎のTwitterが大炎上していた。

 

 吾郎のスマホの電池の残量がいよいよ1ケタ台になってしまった。こんなことになるとは思わず、充電器は事務所に置きっぱなしだった。

 「充電器をコンビニで買ってこよう…」と思った吾郎は部屋の窓からホテルの外をのぞくと、たくさんの取材陣が集まっていた。

 

 「やばっ。表口からは出られないや…。ホテル従業員口から出てみよう…」と持っていた帽子を目深にかぶって、ホテルの裏口から出た。幸いに目の前にコンビニがあった。

 

 吾郎は慌てて店内に入り、スマホの充電器を探した。

 

 レジで会計を終えた2人組の男がこちらに近寄って来た。

 

 「あれ?川田さんじゃないですか?」とそのうちの一人が聞いてきた。

 

 どこかの記者に違いないと思った吾郎は、「いや、違います」と言って、持っていた充電器を元に戻し、その場を立ち去ろうとした。

 

 「待ってください…」と男が言うのを吾郎は振り切って、慌ててコンビニ店から飛び出した瞬間、横から走って来た自転車が目に入って、「あっ!」と思ったが自転車は吾郎に体当たりして、その場で気を失ってしまった。

 

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 「おい!起きろ!起きろってば!」と聞き覚えのある声がした。

 

 「いつまで寝てんだ!」と毛布をはぎ取られた吾郎はゆっくり目を開けた。

 

 「音羽先生!」と気づき、飛び起きた。

 

 「この度は申し訳ございません。決して盗作なんて気持ちはなかったんですが、結果的に著作権侵害問題まで発展していまい、なんとお詫びしてよいものか…」と吾郎はその場で土下座をしていた。

 

 「お前、何言ってんだ?寝ぼけとるのか?」

 

 「いや、寝ぼけているんじゃなく、今、表で自転車とぶつかって、気を失ったようで…」

 

 「お前、気は確かか?サロナ出版の宮戸君が、【眼鏡とベストとギンガムチェック】のエピローグの原稿を取りに来た。昨日お前に預けておいた原稿だ。彼女に渡してやってくれ…」と菊之助が言うと、菊之助の後ろからにっこりと笑った里奈の顔が見えた。

 

 「おはよう、吾郎ちゃん」

 

 「里奈さん。その後どうなりましたか?僕の本は発行中止ですか?本屋大賞は没収ですか?」と吾郎は半泣き状態で里奈に問いかけた。

 

 「「僕の本」とか「本屋大賞」って何?…。吾郎ちゃん、さては夢を見ていたのね…。これって、ネット小説の【眼鏡とベストとギンガムチェック】と同じオチじゃないの…。先生、吾郎ちゃんは先生のアシスタントでよっぽど疲れているんですよ。」と里奈は吾郎の寝癖が付いた髪を指で摘まんでピンピンと引っ張った。

 

 「早く、エピローグの原稿を持ってこい!」と菊之助がしびれを切らした。

 

 「なんだ夢か…」と吾郎は里奈に引っ張られた寝癖を手でなでながら、ため息交じりに言葉を発した。立ち上がって、とぼとぼとエピローグの原稿が保管されている引出しへと向かった。

 

 「なんか言ったか?」と菊之助が吾郎に言うと、

 

 「いえ、何も……。」と吾郎はがっかりしたような、ほっとしたような複雑の気持ちの中、引出しを開けた。そこでまた深いため息をついた。

 

 「あ…、夢は吾郎(五臓)の疲れか…」

 

 <終わり>