Sanpouji Storyteller

交錯する都会の中で織りなす5人の男女の物語

眼鏡とベストとギンガムチェック (12)-海の章Ⅲ

f:id:sanpouji:20190104150655j:plain

 

第12章

 

(5)空港

 空港という場所は、出発する人の動線と、到着する人の動線が基本的に交わら

ないような設計になっている。当然、行きと帰りでは目に入ってくる標識類も異

なる。出発動線を歩く人々の胸には、いつも期待と惜別の念が、そして到着動線

には、満足と落胆のような、それぞれ背反するものがそれぞれの動線の中に混在

しているものだ。交わることのない4つの感情が整然と入り混じる場所。そこが

空港という場所の見えない顔の一つだ。

 

 オオタは、羽田空港第1ターミナル南ウィングの3番出口の黒いシートに腰を

下ろした。オオタの右頭上には、到着便を知らせるモニターがあり、次々とその

情報が更新されていた。左奥のカレーショップからいい香りがしてくる。カウン

ター席には、出張帰りらしき男性と女性の3人連れが横一列に背中を見せて並ん

でいる。足元には、シーサーの顔をあしらった紙袋と各々のビジネスバックが置

いてある。

 

〝沖縄に出張か…気の毒に…。俺なら楽しくて、楽しくて仕事にならんな…。〟

 

 少し口元に笑みを浮かべながら、そんなことを考えていると、オオタの前のガ

ラス扉が開き、どっと人が出てきた。

 

「ターコ、お帰り。」

 

 マスダを見つけたオオタは背後から声を掛けた。彼女は、ややカジュアルで、

それでいて品がある丈の短い黒いパンツスーツに身を包んでいた。手にはやや小

ぶりだが、機能的に使えそうな黒革のバッグが一つ。明らかに旅行者とは一線を

画した様相だ。

 

「どうだった…? ん? 」

横に添いながら、オオタはマスダの顔を覗き込んだ。

 

「ああ、オオタさん、わざわざ…。」

 

「送っていくよ…」

 

「ありがとうございます。でも、大丈夫だから、ひとりで。」

 

 オオタの言葉を振り切るように、マスダは、そのままリムジンバスの乗り場へ

と消えていった。その背中は、憔悴しきっていた。それが果たして満足から来る

ものなのか、落胆から来るものなのか、オオタには判断ができなかった。二人が

寄り添いながら歩いたのは、わずか7mほどの時間だった。

 

 都心へ向かうリムジンバス。グレーとブラックに配色されたやや硬めのシート

の上には、オレンジ色のビニール製のヘッドカバーが掛かっている。マスダは、

その長い髪を束ねた部分で思いっきりリクライニングを最大限まで倒した。そし

て深く座りなおした。手垢のついていない新しい車の匂いがした。次の瞬間、感

じたことのないような睡魔に足元から包まれるのに気づいたが、抵抗する余裕は

彼女に残っていなかった。

 

f:id:sanpouji:20190302114356j:plain

(6)リムジンバスにて

西日が正面の森へ沈む。そこへ向かって伸びる首都高速

平行して走ってきた線路は、

やがて弧を描きながら右へ大きく離れていく。

首都高にかしずくように明治通りの車が、そして2本の線路を走る列車が

さっきからひっきりなしに平行に左右から交差してくる。

それも微妙な高さを変えて。

 

バスは、いぜんとして動いていない。

 

マスダは、何かに突き動かされるように目を覚ました。

 一度は、2列目の席に座ったマスダだったが、ドライバーから、一つ前の優先

席も空いているからどうぞと促され、今は最前列に座っている。どのタイミング

で席を替えたのかあまり記憶が定かでないのだが、この席に座っていると、後部

の客からは、まるでドライバーの助手、いやバスガイドみたいにも見えるのか

な…とか思いながら、ボーっと前の車のテールランプに見入った。

 その席からは、正面の風景とドアを挟んで左半分の視界が結構大きく開いてい

た。左側首都高の下に目を落とすと、ちょうど明治通りの角にいつもの騒がしい

メール・ドゥ・ノルドが見えた。

 

マスダは、6年前の夏のことを思い出した。

 

“あの日と同じ…。”

 

 あの時は、蔦の絡まった建物がまだ店の前にあり店の輪郭さえ見えなかった。

しかし、その絡まった蔦の感じが何ともいえない風情で、記憶の片隅に未だに残

っているのだ。あれは、リヨンからの帰路、成田空港からのリムジンバスの車内

だった。やはりバスは渋滞で動かない、ただただ途方にくれていた自分とバスの

歩みが同じように感じたのを思い出した。

 

〝まさか、あそこで働くことになるとはね…。〟

 

 母からの便箋の中にあった店がどこにあるのか、どんな店なのか、全く見当も

つかない中での帰国だった。

 

〝脱力感しか持ってなかったな…。〟

 

 マスダは、再び目をつぶり、次から次へ浮かんでくるここ数日間の出来事を、

時間の切れ端でパッチワークを埋めるみたいにゆっくり思い起こした。

 

5日前 23:22 メール・ドゥ・ノルド前のテラスにて 

f:id:sanpouji:20190302115420j:plain

 オオタは、無事に1フランランチのイベントを終え、ここしばらく上機嫌だ。

まるで敵軍の王の首でもとったかのようなはしゃぎ様で、ユージには妙にそれが

鼻についてしょうがなかった。ついには、サケトマスを貸し切ってスタッフ全員

で打ち上げをやると言い出した。全員参加の宴席など1年振りだろうか。オオタ

は勿論、マスダも、チューヤンも皆が久しぶりに笑っていた。

 

大将が厨房の暖簾を分けて声をかけてきた。

 

「久しぶりに蕎麦を打ったんだが、〆に食べる奴はいるかい?」

 

 何人かが手をあげた。ショータがひときわ大きな声と共に手を上げたものだか

ら場が少しだけ一つになって笑った。

 

大将が、手を上げている人数を指さして確認しはじめた。

「1、2,3・・・・全部で6人だな。OK! あと、たぬきそばでいいよな!」

「はい!」

6人の声が揃った。

 

ショータがちょっと知ったかぶり風な顔で立ち上がった。

 

「はーい、皆さん、ショータさんの豆知識の時間です!えーっ、東京ではたぬきそばといえば、天かすですが、関西行くとこれがちょっと違うって知ってますか!」

 

「・・・・」

 

「関西で〝たぬき〟といえば、東京の〝きつね〟なんすよー」

 

「へーっ?」

チューヤンがわざとらしく驚いてみせた。

 

「で、この前、久しぶりに大阪のダチんとこ遊び行って、ミナミで立ち蕎麦屋入ったら、そこで、東京から来たみてーなリーマンと店の兄ちゃん、一触即発になってたんすよ。たかが〝そば〟なんだけど、文化の違いってこわいなーって。」

 

その言葉を遮るようにオオタが、酔いで目じりを少しだけ下げながら続いた。

「ショータ、お前、それを卒業論文にしてとっとと卒業すりゃいいじゃないか!」

 

チューヤンも重ねた。

「ショータさんは、どうせ大学卒業できませんね、私がベトナムで雇いますね!」

場がまた一つになって笑いの輪が固まった。

 

 一通りの仕事を終えてから大将も皆の席に加わり、秘蔵の升酒を片手に珍しく

酔いの回っているユージの肩を叩いた。

 

「おい、ユージ。お前も少しは大人になったかね…」

 

「いや、大将。俺は、やっぱり納得できないんですよね。ダメなものはダメだと…」

 

 ふてくされながらも、ユージは、ユージなりの理屈で相変わらずランチ問題を

主張しているようだった。

 

「おい、オオタちゃん、こいつ、段々、あんたに似てきたんじゃないの?」

 

 その場にいた皆が一斉にまたまた笑った。結局、ユージは最後まで子供のよう

にふてくされ顔だった。

 上機嫌で帰ったオオタを見送り、ひとり、ふたりと帰り始め、店には3人だけ

が残っていた。

 

「明日の仕込みを少しだけしないといけないんだ」

とマスダが席を立った。

 

「シェフ、ああ、俺も戻るわ…」

ユージもよろけながら席を立とうとした。

しかし、その足は、どこか千鳥足でおぼつかない。そんなユージをマスダが抱き

かかえながら言った。

 

「もう大将、ユージさんにいったい何、飲ませたの?安い酒使っちゃだめですよ!」

 

マスダは、少しだけいたずらっ子のような顔で大将に振り返った。

 

「ターコちゃん、酒の半分ってのはさ、飲み手が作るもんなんだよ。いい酒もま

ずい気分で呑めば、まずい酒に。多少落ちる酒でもさ、楽しく飲めたりすること

だってあるもんなのさ。〝奇跡の味覚を持つ少女〟と言われたあんたも、まだま

だ修業が足りなそうだねー、はいはい帰った、帰った・・・。毎度―、おやすみー。」

返す刀で大将がマスダに応えた。

 

 悪酔いしているユージを抱えているのか、抱えられているのかわからない感じ

で、何とか店に戻った。わずか3軒隣の距離にマスダは、随分時間がかかった気

がしていた。ユージを何とかテラスの席に座らせた。

 

「シェフ!ノンガス 一本お願い。僕につけといていいから」

 

「はいはい、ユージさん、飲みすぎだよ、今日。」

 

「ねえ、シェフ。シェフはさあ、なんでそんなに平気なの?」

呂律が回っているのか、いないのか。ユージはすっかり絡み酒になっている。

 

「ランチのこと?」

 

「それは、もーいーい。それより去年のこと、あの件、忘れたー?それともわざと知らん振り?」

 

「あの件って、何?」

 

「覚えてないの?台風22号の夜。」

 

一瞬、マスダが少し気まずそうな顔をした。

 

「…ああ、あの台風の日ね…」

 

「そう…なんで平気な顔して毎日、俺と一緒に働けるの?zzzz 意味わからん」

 

「っていうかさ…」

マスダは一種の開き直りのような素振りでちょっとだけ宙を見た

 

「ZZ…泊まったよね…うちに…ZZZZ…キスとか…ZZZZ」

 ユージは、意識が朦朧としている中で、一生懸命に核心に近づこうとするが、

眠気が邪魔をしている。

 

「…あれは、ちょっと、微妙?だった?…かもね…ね」

 

「ZZZZZZZ」

 

 マスダは、少しだけ母親のような顔をしながらゲスト用のブランケットをユー

ジの肩に掛けてから、厨房へ向かった。

 夜の風の中でトリコロールの旗が月夜の中で少し揺れはじめていた。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

“やっぱり失敗だったよね、あの夜は…”

 マスダは一人で笑った。口元の静かな色のルージュにオレンジ色の光が差して

いた。

 

 西日が大きく正面の森に沈み込みながら、風景が紫色のカーテンをかけたよう

になってきた。バスはほんのわずかだが動き出した。とはいえわずかな距離だ。

ドライバーがしきりと無線で連絡を取っている。この先のランプで複数の車の事

故が起きているらしい。最前列に座っていたマスダの目と耳にはその混乱ぶりが

よくわかった。おそらく当分の間は動かないのだろうことは察しがついた。店は

左肩の後ろに移っていた。店に明かりが点いたのが見えた。ユージはいつものよ

うに訳知り顔でまた動き回っているのだろうか。

 

“眠い…”

また目を閉じた。

 

 次に浮かんできたのは、あの慌ただしい場面だった。ひとりの神妙な女への小

さな苛立ちと、踏み込めない自分の気持ちのもどかしさから始まった。

 

3日前 12:14 伊勢王百貨店3F 婦人雑貨フロアにて 

f:id:sanpouji:20190302121633j:plain

 その日の朝、オオタに促され、急ぎ身支度を整えたマスダは、そのままホテル

の部屋から飛び出した。ユージには、電話で数日間の急な休暇を申し出た。ユー

ジは、えらく憤慨したが、1フランランチ以来、まともに休みもないのだ。正確

に言えば、正月休暇以来、休みらしい休みはもらっていなかった。最後は自分か

ら電話を切った。

 口数の少ないセカンドシェフとチュウヤンにも厨房に入るようにLINEをし

た。ユージは、また怒るかもしれないが、でもオオタは理解してくれるはずだ。

 

 このホテルの下層フロアは、伊勢王百貨店になっており、3階と4階は、成

田、羽田の両空港や周辺の主要都市へのバスターミナルにもなっている。婦人雑

貨のフロアは、このターミナルと同じフロアでつながっている。昼間の時間帯は

買い物に来た年配の女性客や観光客、そして昼休みのOL風な女性たちで、まず

まずの混雑ぶりである。

 

“急いでるんですけどー”

 

 マスダは、心の中で絶叫にも近い声をあげた。しかし、いま目の前にいる女

は、ストッキング一足を選ぶのにさっきからずっと思案している。右へ左へ、一

つ一つのパッケージを吟味しながら手にとっては、思案し繰り返し棚に返してい

る。ストッキングの踝からふくらはぎにかけて、気にすれば気になるような微妙

な伝線が走っていた。ただその小さな亀裂がやがて取り返しのつかないものにな

ることであろうことは女子なら容易く察しがついた。その背後で、マスダは、そ

の様子をじっと見ていた。

 

自分も急いでいるのにもどかしい。

 

 3分、5分、マスダはこういう時に自分の意思表示ができない。ユージはそん

なところが、いいところだともいう。遠慮する自分。ずーっと遠慮している自

分。なぜ割り込めないないのか…そんな嫌いな自分と認めなければいけない自分

が、いつも私の中で一緒に生きている。とにかく乗るべきフライトの時間が迫っ

ていた。

 

 マスダは、思い切って女の脇に立ち、そのか細い白い手で少し上段にあった黒

いストッキングに手を伸ばした。そのとき、昨夜、気まぐれでやったネイルアー

トがそのままだったことに初めて気づいた。そして一目散にレジへ向かった。そ

のストッキングが、くるぶしに小さなラインストーンがついていたことに気づい

たのは、そのずっと後だった。

 

〝これに乗れないと間に合わないのだから…。〟

 

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

“あれは、神様の悪戯だったね…”

 

 マスダは、誰かに話しかけているみたいにつぶやいた。そして、夢か現かよく

わからない中で、そのまま再び深い底に落ちた。一瞬見た窓には黒いカーテンが

降りていた気がした。

 

 

2日前 9:45 松江市慈雲寺

f:id:sanpouji:20190302122603j:plain

 

 ゆっくりと進む葬列。昨日の夜もこの列の最後尾に何とか間に合い並ぶことが

できた。しかし、最終的には焼香するのをためらって、その場から逃げるように

急ぎ予約した空港近くのホテルへ戻った。

 

 隣の部屋の音が漏れてきそうな壁の薄い安ホテルだった。一つ一つのポケット

コイルの形を感じるほど、疲れきったシングルベッドに腰かけて、薄暗い部屋で

デスクの上にある懐かしい絵柄の傘がついたテーブルランプだけ灯した。白かっ

た壁の色がはっきりしないクリーム色に変わった。

 窓の外の月がきれいに見えた。溢れる涙をこらえなければと思いながらも、待

てど暮らせど一粒の涙も流れない。心と体とは、こんなにもアンバランスなもの

かと思いながら、月を見ていた。

 

〝今夜は、15番目の月ってやつくらいなのかな…〟

 

 マスダは、いつしか眠りについていたようだ。遮光カーテンの隙間から強い日

差しを感じた。この部屋が東向きだということを理解した。

 

〝やっぱり行くべきだよね、そのために来たんだし。〟

 

 JR松江駅から700メートルほど北へ、大橋川にかかる新大橋を目指して歩

くと、そこに慈雲寺がある。日蓮宗の寺で小さな門がある。3月とはいえ山陰の

朝は、思いのほか冷えていたが、午前10時に近くなるころには、温かい日差し

に変わっていた。

 

 「故山本義一郎 儀 葬儀式場」。昨夜もこの看板をみていたが、墨文字が昨

晩よりも荘厳に感じたのは、看板の白い部分に陽が当たって一段とコントラスト

をはっきりさせているためだろうか。マスダは、その長い髪の毛を後ろ手にくる

りと起用に巻いてその門をくぐった。

 

 山本義一郎。日本フランス料理界の重鎮の一人と言われ、彼の影響を受けたフ

レンチの料理人は数知れず、ジャパンフレンチそのものが彼だという評論家もい

るほどだ。しかし、その重病説は以前から話題に上がっており、晩年はあまり表

に出ることもなく、その消息を知るものも決して多くはなかったが、ここ2年ほ

どは故郷の松江に帰り、残り少ない時間を過ごしていた。享年83歳だった。

 

 義一郎には、2男1女からなる3人の子供たちがいた。誰もが、この業界の第

一戦で活躍している。飲食チェーン店経営者や料理評論家、そしてフードビジネ

スのコンサルタントなどである。流石に、どこで漏れ聞いてきたのか会葬者の数

はそこそこの有名人並みだ。

 

 マスダは、うつむきながら、会社関係の葬列の中にいた。

“マスダ イツキ”

 芳名帳に記した。緊張で筆がぎこちないのを感じた。

 

「ターコちゃん!ね、久しぶりね、リヨン以来ね」

 

 声をかけてきたのは、フランスで長く義一郎の秘書をしていたルイ-ズだ。日

本人の父とアメリカ人の母を持つアメリカ系フランス人だ。彼女の日本語は、聞

いているだけなら日本人でさえ日本人だと勘違いするほどのレベルだ。

 

「ご無沙汰しています、ルイ-ズ、日本にわざわざ?」

 

「いえいえ、ここ1年くらいは先生のおそばにね、松江にいて先生の身の回りのことをね。それよりも、よく来てくれたわね、わざわざありがとう。どうぞ、奥へ。」

 

 二人は、葬列から少しそれた庭園に続く脇道を歩きながら、斎場へ向かった。

庭の早咲きの梅が今、まさにという見ごろになっていた。

 

「先生はね、私にだけ話していたけど、最後までターコ、ターコって。心配してたのよ。」

 

「そのターコは、ママでしょ?私じゃないでしょ。みんなでターコ、ターコって。おかしいよね。」

 マスダは、初めて松江に着いてからの緊張が解れたのを感じた。

 

「先生は、あなたが子供の頃に、お母様の名前を聞いて、自分のことを『ターコはね、ターコはね』って言っていたという話を、何度も私に話してくれたの。先生もあの時代が一番楽しかったんじゃないかしら」

 

「そうだったのね…。」

 

 梅の並木が切れるあたりで、喪服姿の体格のいい男が声をかけてきた。

 

「久しぶりだね、イツキちゃん」

 

「あっ!……。」

  マスダがルイ-ズの後ろに少しだけ下がった。ルイ-ズは、その男の声と息がマスダにかからないよう、身を挺するかのようにかばいながら進もうとした。

 

「ルイ-ズが呼んだの?イツキのこと」

 

「わざわざ、来てくれたんですよ。先生のために。」

 

「イツキが顔出せる場所じゃないと思うけど?ここ。」

 

 山本義彦、義一郎の次男でいくつかの飲食店チェーンを経営している。その業

態は、ファーストフードに始まり、回転寿司、ショットバー、そしてラーメン店

までと幅広い。その経営手法は、剛腕とも、強引とも言われているが、押しも押

されぬ松江随一の実業家のひとりだ。ここ数年は、日本海沿岸を中心に拠点展開

を進めており、「日本海の食キング」などの異名をもらっている。 

 

「だめですか…お焼香…」

 マスダは、喉の奥から絞り出すような声で、精一杯の反応をしてみせた。

 

「帰ってくれないか、イツキ。お前の顔を見るとあの頃を思い出す。」

 

「…。」

 

 この不穏な様子に気づいた山本家の何人かの親族も何事かと集まってきた。

義彦は、それらを前に憮然と言い放った。

 

「これが皆さん、例の問題少女だったイツキですよ。父が死んでもなお、私たちに迷惑をかけようとしているんですよ、どれだけ面の皮が厚いのやら」

 

 マスダは成す術もなく、ただじっとしていることしか出来なかった。決定的だ

ったのは、マスダが、東京で出がけに買ったあのストッキングだった。踝からふ

くらはぎにかけて〝SMILE〟の文字がシルバーのラインストーンで小さく入っ

ていたのを義彦は見逃さなかった。

 

「おまけにイツキの足元には、ニコニコSMILEですよ。父の死を喜びに来たなら、それならそうと言ってくださいよ。イ、ツ、キ、さん!」

 

「これは…」

 マスダも義彦の指摘にハッとした。全く気づいていなかった。これは明らかな

失敗だった。

 流石に冷静で淑女のルイーズも、義彦のあまりの態度と言葉に業を煮やし、

「Dégueulasse!(最低!)」と言い放ち、その場を離れるしかなく、マスダの

焼香は叶わなかった。マスダはさっき強気でくぐった慈雲寺の門を、予想もして

いなかった感情で戻ることとなった。ルイーズが、子供のように涙をこらえてい

るマスダの肩を抱きながら、何度も、何度も謝った。

 

 「ルイーズ、ありがとう。こうなることは、東京出るときから、何となく予想ついてたんだ。ホントは…大丈夫…。」

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 “やはり行かなければ、よかったのかな…。”

 

 バスは、やっと事故で通行止めになっていたランプを下り始めていた。流れる

高層ビルの風景が、ガラス越しに見えた。

 

10日前 16:32 マダムの店にて

f:id:sanpouji:20190302124316j:plain

 マダムの店では、上客を相手に2ヶ月一度、アフタヌーンティーの企画をし

ている。毎回、マスダとナツキが出張で準備をしており、それがすこぶる評判が

いいのだ。マダムの店は、この界隈では老舗のブティックで、メール・ドゥ・ノ

ルドからは3ブロックほど東にある。いわゆるマダムによるセレクトショップ

だ。特にその色のセレクトがいいと長く付き合っている客も多い。最近は、客の

加齢に合わせて、少しづつラインナップも変えてきていることをあまり客たちは

気づいていない。マダムは、この2ヶ月間で一定の金額を購入してくれた上客た

ちだけをこのミニパーティーへ招待している。かける予算もそこそこで、オオタ

にとっても大事な売上になっていた。

 

「お疲れ様、今日もありがとうね、いつものことだけど。」

 

 マダムが、ふたりを労うために奥から3人分のミルクティーを運んできた。そ

ロイヤルコペンハーゲンカップは、毎回、3人のためだけに使われる特別な

もので、3人の生まれ年のイヤープレートの図柄をモチーフにしたものだ。マダ

ムが本国にオーダーして作ったオリジナルのティーカップだった。今回も大盛況

のうちに終わり、上客たちは帰っていった。2ヶ月に一度とはいえ、毎回趣向も

変えるため、それはそれで結構大変な準備が必要なのだ。

 

 ナツキは、この日だけは、別人のように話をする。マダムと年齢が近いせいも

あるが、このブティックの雰囲気がナツキを少し開放的にするのだろうか。入口

は、白の一枚板で、その脇に十字に切った小さなガラス窓がある。あまり中を

見ることはできないが、童話に出てくるような「お菓子の家」のようにも見える

つくりだ。店内には、洋服と雑貨が7:3で配置され、その雑貨たちの小粒さ

は、女性なら誰しも目を細めるような、かわいさにあふれていた。

 

「これ、どう?あげるわ。」

 

 マダムが、卵ほどの大きさのマトリヨーシカを二人に手渡した。

 

「中、開けてっていいですか?」

 マスダは、目をくりくりさせながら一つ一つその卵型の人形を開けていった。

出てくる人形たちは、微妙に表情こそ違っていたが同じロシアの花売りの少女だ

った。笑顔、泣き顔、怒り顔、したり顔、そして無表情。人形たちは、どんどん

と小さくなって最後は、マスダの小指ほどの大きさになった。

 

 そんな様子を脇でみていたナツキが口を開いた。

 

「私ね、実は発明が趣味なんですよ。」

 

マダムがすかさず

「ナツキちゃん、朝ドラの見すぎじゃない?」

って、ティーカップを持ちながらケタケタと笑った。

 

「ホントなの。以前、ちょっと新しい発明したら、それが意外にヒットしてね」

 

 人形をいじる手を止めてマスダ聞いた。

「ナツキさん、何作ったの?」

 

「〝Oyako de Mimi〟っていうの」

マスダとマダムは怪訝な顔して向き合いながら、今にも噴出さんばかりの表情を

した。

 

「いや、うちの子供、小さいころ耳掃除が嫌いでね、それで子供と一緒に楽しく

耳掃除ができないかと思って作ったのね」

 

「当たった?」

商魂たくましいマダムはそっちの方が関心あるようだ。

 

「儲かりましたよ、小さな家1軒分くらい。」

ナツキは、薄い笑いを浮かべた。

 

「へーっ!」

素っ頓狂な声をマスダが出しながら体をゆすった。その振動でテーブルの人形た

ちは、一斉に四方八方に転がった。

 

「でも、旦那がそのあと、すぐにリストラにあってね。家のローンや子供の教育

費やらもあって、2年くらいで底ついちゃった」

 

その場が、一気に暗くなった。

 

「でもね、もう1度やろうと思うの。自分の歳を考えたらもう1回だけかな。や

っぱり私ね、新しいことが好きみたい。」

 

「いいじゃない、私応援するわよナツキちゃん。資金出すから私も一枚噛ませな

さいよ!」

 

「ありがとう、マダム」

 

「そうよね、人生ってのはさ、いつからでも始められるのよ。少しくらい高い目

標に向かわないとね。そうでないと人生とは言えない。私は、そう思っている

わ。」

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 〝ちょっと鵜呑みにしちゃったかな…あのマダムの言葉…〟

 

 マスダは、心の深みから湧き上がってくる、どうしようもない嫌悪感をもう一

人の自分にかみ砕くように伝えた。

 

〝少しくらい料理の腕をほめられていい気になるな〟

 

〝思っているほど、甘くないんだよね〟

 

〝それほど簡単には生かせてくれるものじゃないの。〟

 

〝あなたは、本来消すべき存在なんだ。消えているべきなの〟

 

 マスダは、次から次へと自分が小さくなっていく感触の中にいた。まるでマト

リヨーシカのあの花売りの少女のようだった。

 

 マスダを乗せたバスは、ゆっくりとターミナルのスロープを上がり、到着フロ

アに滑り込んだ。ドアが開いたが、マスダはしばらくの間、席を立てずにいた。

すると後部席の乗客が次々と降りて、左手のエスカレーターで消えるように階下

へ降りていった。

 

「お客さん、最後ですよ」

ドライバーに促され、やっとマスダは席を立つことができた。

 

「運転、大変でしたね、事故…とか…ね」

不思議なくらい自然に言葉が出た。

 

「ああ、ありがとうございます。いろいろありますよ。思うように行きませんよね。ドライバーの仕事というのは…。ああ、まあ生きるのも一緒だね。」

 

 ドライバーが、帽子を取りながら笑顔で小さな会釈をくれた。バスのステップ

を1段、2段と降りた。久しぶりに地面の上に足を降ろした気がした。マスダを

降ろしたバスは、エア―の音と共に扉を閉め、大きくクラクションを一回鳴らし

降車エリアから走り去った。

 

いくつかある降車用のプラットホームには、バスは無く、人影もない。

マスダは、思わずその場にうずくまってしまった。

ずっと我慢していた何かが壊れたように涙が出てきた。

自分の中にどれほど無意識の涙というのがあるのか、

想像もつかない位、涙が止まらなかった。

膝まづき、右手をついた。

コンクリートの床が冷たい。

こんなにも冷たいものかというほど、冷たかった。

それに反応したのか、凍えるように両手で自分の膝を抱いた。

何かに大切に守られている気がした。

そして自分でも聞いたことのない大きな泣き声が、

人気のないバスターミナルに響きはじめた。

 

 エスカレーターを階下から駆け上がってきたユージの息はすでに切れていた、

そして、初めて見るそのマスダの姿にただただ茫然とするしかなかった。

f:id:sanpouji:20190302130305j:plain


ハッピーエンド / back number (cover)