眼鏡とベストとギンガムチェック(1)-霞の章1
第1章
ふわりと香水の匂いがして、美沙の隣に女性が立った。
ネイルアートをした白い手が、上段のブラックのストッキングを取りあげ、レジへと去っていく。
3秒とかからない。
その人が選んだストッキングは1800円。
くるぶしにラインストーンの飾りがついている。
美沙は溜息をつき、両手の二つの値札に目を戻す。
600円の方を買えば、忘年会の福引でもらった千円の商品券で、現金のお釣りがもらえる。もちろん3足入り980円のセール品の方が得だ。だけど消費税を入れると現金を足さなくてはならない。
ストッキングの予備は家にどれくらいあっただろうか。
ずっと決められない美沙を、店員がチラチラと見ている。
もうお昼休みも終わる時刻だ。
結局、両方とも棚に戻して百貨店を出た。
鬱々とした気持ちを振り切るように、美沙はオフィスまで走った。
席に着く直前、後輩が無邪気に声をかける。
「あ!せんぱーい!ストッキング伝線しちゃってますよ」
美沙は「え?どこどこ?」と慌ててみせて、
「やだー、気づかなかったよ。お昼休みに買いに行けばよかった」
と大きな声で答えた。
美沙が幼馴染の武に200万円を貸して一か月が経つ。
200万は貯金の全てと、その月の給料の3分の1だった。
彼からはその後何も言ってこない。
でも、騙されたわけじゃない、言い出したのは私だったと、美沙はまた自分に言い聞かせる。
あの日、美沙は信号待ちをしていた青いプジョーを見つけて、駆け寄った。
やっぱり、武だった。手を振ると窓を下ろして「乗らない?送るよ」と微笑む。
「やったー。ラッキーラッキー。この青ホント目立つねえ」とはしゃいで乗り込んだ。
「冴ちゃん、元気?また三人でドライブ行こうよ」
武の恋人の冴ちゃんとは、このプジョーに乗せてもらってよく遊びに出かけた。
記憶の中の三人は、いつも笑っていた気がする。
一瞬の沈黙の後、武は小さな声で言った。
「ごめんね、できないよ」
驚いて武の横顔を見る。しばらく会わない間に痩せたのか、影が濃い。
「どうして?冴ちゃんと別れたの?」
「いや、別れないよ。この車ね、今、売りに行くところなんだ」
「だって、これは仁叔父ちゃんの」
形見、と言いかけて黙った。
プジョーは武が叔父の仁から譲り受けたものだ。
仁はその後、家族に置手紙を残して行方を消した。
言わば形見のような、大事にしていたこの車を売るなんて、
美沙には考えられないことだった。
「お金が必要なんだ」
つぶやいて、武は自分の言葉を悔やむように目を伏せた。
子どもの頃から美沙のお兄さん役をしてくれる、
いつも堂々としている武の、こんな思いつめた表情を、
美沙が見たのは初めてだった。
美沙が200万円を渡したとき、武は怒ったような顔をした。
そして、その目がだんだん潤んでいくのを、美沙は黙ってみていた。
「何も説明できなくて、ごめん。今は何も言えないんだ。でも」
食いしばった歯がやっと開くのと、涙がこぼれたのは同時だった。
「必ず、返す」
「うん」
「俺は、返せる」