眼鏡とベストとギンガムチェック(21)-海の章Ⅴ【終】
第21章
(12)桜の季節に
どこからか桜の花の香りがしてくる。
それがいったいどこなのかを特定することはできないが、桜の季節というのは、たくさんの花たちが発するあの柔らかい香りで東京は包まれる。
ユージは、この街が、ほんの少しだけ優しくなってくるような感覚を覚えていた。
TVの中の朝の天気予報はスプリングコートもそろそろいらないと、明るく話していた。ユージは、その後、何も見てなかったようにマスダに接し、マスダも、淡々と仕事をこなす日々が続いていた。最近のオオタは、店に来る日が減ってきていた。色々と忙しいらしいと大将から聞いた。
この日、マスダが年に1度の料理の素材探しの旅として北東北へ行っており、厨房はチューヤンがシェフの代理を務めていた。チューヤンの料理の評判は、マスダのピンチヒッターとしては、まずまず遜色ないものになっていた。一通りの昼の忙しさが終わり、ユージが、ランチタイムのラストオーダーを取っていたタイミングだった。
カランコロン、
見慣れない外国人女性客が入ってきた。春色のワンピースに大柄な桜の花びら模様が1枚スカートの裾に入っていた。その女性客は、品よくスカートの裾をひらりとさせながら、ドアを丁寧に閉めた。白いヒールに金色のRのイニシャルのステッチがあり、手には薄ピンクのブランド物のやや小ぶりなボストンバックを持っていた。
「こんにちは。マスダイツキさんはいらっしゃる?」
その外国人の様子からは予想できないほどの流暢な日本語が飛び出し、ユージは、少々面食らってしまった。
「ああ、すいません、今、マスダは出張に行ってまして、戻るのは3日後になってしまいます。」
「そうですか、やはり事前に連絡をすべきでしたね。残念ね。」
「申し訳ありません」
「いいえ、大丈夫です。あなたが悪いわけではないわ。私は、彼女のリヨン時代からの古い友人なのですが、先日、あるご不幸があってその時ご一緒したんですけど、その後、どうしたかなと、少し心配に思いまして。」
少し思案したあと、その女性客はぐるっと店内を眺めてから、窓際にあるやや半個室のように、囲われた席を示し、座っていいかしら?と合図した。
「どうぞ、シェフのご友人なら、どうぞ、どうぞ。」
普段ならこの時間は、すでにラストオーダーも取っているし、そもそも一人客には、座らせない席なのだが、今日は特別だ。ユージは、オオタから一言、二言、小言を喰らうかなとか思いながらも、その一方でマスダから、あとでちょっとは感謝されるのではないかとも考えた。しかし、それよりもマスダの身の上に起きた何かが聞き出せるのではないかと思い席を案内した。
「ユージさん、誰ですか?」
チューヤンが、デシャップの奥から囁き声でユージに聞いた。
「わからん、シェフの古い友達らしい」
カランコロン…
オオタが、いつものように、いぶかしい顔をしながら入ってきた。手には、大きめの茶封筒が一つ、聖書一冊分くらいの厚みになっていた。封筒の口から何枚もの書類が顔を出していた。半個室の席は、入り口からは、少し左手に奥まっておりオオタの死角になっている。
オオタが、デシャップに向かいながら、声をかける。
「おい、ユージ!」
ユージが、デシャップから速足で出てきた。
その中間にいた外国人女性客が、驚いたようにそこに割り込んだ。
「あなたが、ユージ?ムッシュ、ユージ?なのですか?」
「ああ、はい」とユージは突然の言葉に目を丸くした。
オオタは、死角の半個室の席の女性客を見て、同時に驚いた。
「ルイーズ?ルイーズじゃないか!」
オオタは、ユージへの用件をそっちのけにし、持っていた茶封筒をユージにポン!と預け、ルイーズに駆け寄った。そして、腰を折りながらルイーズと軽いハグを交わした。
相当に親しいことが店内のスタッフの誰もが知ることになった。
「オオタさん、変わらずですね。お元気そうで。」ルイーズが懐かしさを言葉にした。
「いえいえ、もうすっかりロートルですよ。」
オオタは、照れを隠すように少し薄くなってきた髪の毛を触った、いつもの髪型が少し乱れた。
「オオタさん、彼を紹介してください。ユージさん?を」
オオタは、ユージを手招きして自分の横に並ばせた。
「うちのメートルのユージです、うちは、シェフとこいつの両輪で回っているようなものです」
ユージは、〝外面だけは相変わらずだな…〟と内心、オオタの言葉にケチをつけた。
「ユージさん、私は、ルイーズです。先ほどは失礼しました。イツキとは彼女がリヨンでの修業時代からの友人です。この前、彼女からあなたのことを聞いたとき、あなたには、是非一度会えたらいいなと思っていました」
「シェフが?」
「彼女が話していました。大切な人で頼れる人なんだと言っていましたよ。」
「俺は、なにも、なんの関係もないですよ」
デシャップで、チューヤンとナツキがお互いに顔を見合わせて笑った。
「しかし、オオタさん、本当にお店を作られたのですね?イツキちゃんも素敵な店だと言ってました。お邪魔できて良かったです。イツキに会えなかったのは少々残念ですが。」
「そんな大した店ではありませんよ。根っからこういうのは自分でも、どうなのかと…」
オオタが、申し訳なさそうにルイーズの前の席に腰をかけた。
「ルイーズさん、何か召し上がりませんか?すぐ用意させます。」
ユージが気を利かせて割り込んだが、ルイーズが首を横に振り、左手でやさしく制止した。
「ところで、ルイーズは、わざわざ松江から?」
オオタが、座りなおしながら聞いた。
「いえ、NYへ帰る前に、イツキちゃんの顔を見ていこうと思っていたもので。でも、なかなか日程が決まらなくて、連絡できず仕舞で今日になってしまいました。両親も年老いてきたので、しばらくはNYに留まろうかと思っています。次は、いつ日本に来れるか…」
「そうですか、寂しくなりますね」
「そう、オオタさん、あなたに渡さなければならないものがあるのですよ」
「???」オオタは、怪訝な顔をした。
「タエコさんが、最後に私に託した手紙です。」
「なぜ、ルイーズが?」
「ご存じのように私は義一郎先生の秘書として長くお仕えしてきましたが、タエコさんとも無二の親友だったことは、あなたがリヨンにいらしたときにお分かりになったでしょう?そして、私は、あの後、先生のご指示もあって最後までタエコさんのそばにいたのですよ。」
「そうだったんですか」
「私は、当時、3通の手紙をタエコさんから預かりました。1通は、イツキちゃんに。そして残りの2通は、将来、義一郎先生がなくなられた後にあなたに渡してほしいと預かっていました。最後の1通は、おそらくユージさん、あなたが受け取るべき手紙のような気がします。」
「ターコの手紙は、以前、シェフから読ませてもらいましたよ。私は、当時の松江のようすを全く知らず、自分のことだけで、もう一杯一杯でした。」
(13)第1の手紙―タエコからイツキへ
「その後、料理の腕前は上がっていますか?自分が好きで選んだ道ではないのに、あなたは、自分の使命だと思って頑張っている姿をそばで見られないのが残念でなりません。
私の病状は、一進一退。でも残念だけど、これ以上、よくなることはなさそうね。もし、私に万一のことがあったときは、一度、日本へ帰りなさいね。
あなたを東京で待っている人がいるの。小さなお店のようだけど、今、あなたのための準備をしているそうよ。あなたは憶えていないと思うけど、私たちのことをすごく大切に思ってくれている人がいるの。
義一郎さんにも確かにお世話になったけど、結局は、私たちは大切にされたのか、どうか、今の私にはわからない。でも、あなたの実の父親であることだけは間違いない。でも、もう松江には、もう戻りたくないわよね、それは私も同じ。・・・・・
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松江の山本家は、代々市内に住んできた古い家柄だった。義一郎は、地元の木材を扱う材木店で財を成してきた祖父や父からは、店を継ぐように言われたが、いずれ輸入材が増えて日本の材木産業が厳しくなると確信し、早くから家業を継がないことを決意し、〝食〟の道を選んだ。材木店は、姉の仁美の婿が三代目として継いでいた。十分な土地や田畑もあり、斜陽の材木店を細々とやりながらも山本家そのものは、何不自由なく暮らしていた。
義一郎は、自分の調理人としての感性を活かしながら、飲食チェーンの経営的才覚も発揮し、ワイズフーズという地元でも注目される中堅経営者の一人として頭角を現していた。
義一郎、42歳。その時、すでに妻と二人の子供と共に暮らしていたが、そこにタエコとイツキが東京から呼び戻された。タエコは30歳、イツキは5歳だった。
義一郎は、自宅から国道431号線を西へ15分ほど走った宍道湖の北岸に所有していた古家と二人が毎月暮らしていくに十分な金を与えた。多くの親戚たちは、その非常識さを非難したが、当時の義一郎が耳を貸すことはなかった。
南側に大きく宍道湖が開かれたその古家は、赤茶色の瓦屋根の二階屋で白い壁が印象的だった。家の前には、小さな空地があり、古びたブランコと赤く錆びてこそいるが、小さな子供が遊ぶには十分な鉄棒があった。
イツキは、よくそこで一人で遊んでいた。母親の声に振り返ると二階の窓に宍道湖の湖面の光が乱反射して眩しかったのを記憶していた。イツキの原風景ともいえるものだった。
義一郎は、イツキのことを殊の外可愛がった。当時、義一郎には、二人の息子がいた。活発でやんちゃな次男の義彦に比べ、兄の仁一は物静かで何を考えているかわからないところがあった。
幼いころ、息子たちもイツキを実の妹のように接していた。しかし、そんな時間が長く続くことはなかった。しばらくして、義一郎の妻が長女、礼奈を産んだ。
義一郎、その妻とタエコ、そして子供たちの関係は年を重ねるごとに複雑になり始めていた。イツキが小学校の高学年になり、息子たちが多感な中学生になったある夏の日のことだった。
義彦が中学の夏休みの自由研究で家族に関するレポートを提出することにしたときのことだった。それまでは、なんとなく、自分たちの父には二人の妻のような親戚のような人がいて、そこにつながるように仁一、義彦、イツキ、そして礼奈の4人の子供たちがいると感じていたが、本質的なことを理解するには至っていなかった。
義彦が役場へ出向き、自分の戸籍を調べてみて、初めてこの家族の複雑さを知ることになった。イツキの父親の欄が空白になっていた。これは、どういうことかと役場の窓口担当者に聞くと、イツキが義一郎の子供として認知されていないということだと、当時の役場の窓口担当者は丁寧にそれを教えてくれた。
義一郎自身は、早くからイツキをわが子として認知をしたかったが、妻の猛烈な反対に合い、長年、そのままの状態が続いていたのだった。認知されれば、イツキが非摘出子となり、山本家の財産を相続する権利が生まれる。妻はこれに反対し、また一部の親族も反対をしていたのだった。
その間、義一郎は、事業を拡大し続け、飛ぶ鳥を落とす勢いの急成長の中にあった。しばしば、メディアの中にも顔を出すようになり、妻の反対はそれに伴い、月日を重ねるごとに頑なものになっていった。
結果、義一郎は、タエコやイツキのことは勿論、家の中のことにも目を配る時間を失っていたのだった。
「兄貴、遅くにごめん。」
ある蒸し暑い夏の夜、義彦が仁一の部屋を訪ねてきた。網戸をした窓に部屋の灯につられて虫が何匹か止まっていた。部屋の片隅で扇風機がゆっくりと左右に首を振っていた。
ラジオからは深夜放送のDJが小さな声でリクエストのハガキを読んでいた。今夜も義一郎は東京に出張しており、母親はすでに寝静まっていた。二つ違いの仁一は、高校受験を控え、連日勉強机に向かっていたが、集中力があがらない自分に小さな苛立ちを覚えていた。
「なんだよ、こんな時間に」
仁一は、不機嫌に答えた。
「兄貴、イツキの秘密知ってた?」
何となくこのことはすでに感じ取っていたが、我が家のアンタッチャブルな事案だと思い、無関心を装っていた。
「なんのことだよ?」
机のZライトを消して、眼鏡を外した。参考書の読み過ぎか、目がかすんでいる。ギーっと音を立てながら椅子をグルっと回し、入り口の義彦に向いた。
「イツキは、おやじから子供として認知されていないんだよ」
「・・・多分、そうなんだろうな、おやじと母さんがそのことで揉めてたのは、知っている」
「あいつが認知されたら、どうなるんだ?兄貴」
「非嫡出子ってやつになって、俺たちと親の財産を分けることになるんだろうな」
「そもそも、〝北岸の叔母さん〟って、俺たちとは関係ないよな」
二人は、タエコのことを宍道湖の北岸に住んでいたので〝北岸の叔母さん〟と呼んでいたが、母親にタエコのことを聞くと、不機嫌になるので、いつの頃からか、家の中では話題にしなくなっていた。
タエコの身体の調子もよくなく、外出する機会も減り、最近では、ほとんど顔を合わせることもなかった。
「そうだよ、親戚ってわけじゃないんだよ、俺たちと血がつながっているわけじゃないんだ」
仁一は、自分の中でぼんやりと思っていた感覚を自らの言葉として初めて口にした。
「イツキがもし家族になったら困るね兄貴。俺、大人になったら欲しい車があるんだよ、財産取られたら嫌だな」
義彦のその動機は極めて子供っぽいものだった。
「義彦、もう、寝ろ。俺やらないと」
薄い笑いを浮かべながら仁一は、小さく頷いた。
3日後の夏の夕暮れ、突然の夕立の後、その事故は起きた。
仁一が、イツキの家の近所の今地池で背を向けて浮いていたのを通りがかりの老人が見つけた。同じころ、雷と激しい雨の中、ドロドロになった白いTシャツと激しい何かの力で破れた青いスカートでイツキが家に帰ってきた。
ずぶ濡れでジッと口を一文字にしたまま、玄関に立つイツキを見たタエコは、驚愕を隠せぬまま、ただ抱き寄せるしかなかった。
仁一は、辛うじて一命はとりとめたものの、この日のことについて、その後、仁一も、イツキも何ら語ることはなくその夏が終わった。
義彦は、礼奈に対し、イツキが財産の取り分を増やすために、仁一をため池に突き落としたのだと、その幼い理解で話した。
以来、イツキたちと彼らとの交流はなくなっていった。それに反するように義一郎の名声は高まるばかりだった。しかし、そのプライベートな面を語る機会は極めて少なく、タエコやイツキの存在もいつしか、彼の中で小さくなっていき、むしろ煙たい存在にも思えてきたのだった。
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今、思えば、あなたの中学卒業のあの時、義一郎さんからの勧めで、あなたをリヨンへ料理留学させたのが、あなたにとって、正しかったのか、どうだったのか私には未だにわからない。ママは、また道を間違えたかも知れないって、ずっと思っていたの。
もともと、この病に蝕まれた身体をあなたと共にリヨンに連れていくこと自体が無茶だとお医者様からも止められたわ。あなたといられる未来の時間を確実に短くすることは承知の上だった。
でも、あなたを一人でリヨンに送る怖さを乗り越える勇気もまた、私にはなかった。
とはいえ、リヨンでの生活も、結果、あなたは修業づけの毎日で寮暮らし。私と会う機会もほとんどなかったけど、松江の頃より遥かに心は健康だった気がするの。
一度だけ、あなたが寮から帰ってきて私に食べさせてくれたミルクレープ。あれは美味しかったわよ。いつか、看板メニューになるといいわね。東京に帰りなさい。そして、彼を訪ねなさい。 彼の連絡先を同封します。益田妙子」
「イツキが帰国したのは、確か6年前、22歳の時でしたね。私が、少し準備に手間どってしまい、最初の1年間は知り合いの店で働いてもらっていました。」
オオタが悔しそうに話した。
「7年間の留学期間は、イツキちゃんにとって、どんな時間だったのか、この私にも未だに話してくれないわ。タエコさんが亡くなったのは、47歳の時でしたね。あまりにも早すぎました。」
ルイーズが静かに言いながら、出されたコーヒーを口に運んだ。
「オオタさん、どうぞ封を開いてください。あなたが読んでくれるまでが私の役目ですから」
ルイーズがすすめた。
今にも涙が溢れんばかりの顔で、オオタは、妙子の最後の手紙が入った白い封筒を取り上げた。ユージが、フランス製のペーパーナイフを差し出した。
(14)第2の手紙―妙子からオオタへ
「あなたが今この手紙を読んでいるということは、義一郎さんがすでに亡くなって、ルイーズにお願いした通り、手紙を届けてくれたということですね。そして、あの子は、あなたのお店で腕を振るっているのかしら?
どんなお店なのかしら、どんな料理をあの子は出すんでしょうね。あの子の作るミルクレープが大好き、私がそこにいられないのが本当に残念でなりません。
まずは、あの日、リヨンに来てくれてありがとう。本当に来てくれてうれしかった。松江の家を追われるように二人だけでリヨンへ来た時は、半ば、義一郎さんの優しさだと思っていました。料理の道を半ば強引に選ばせられたあの子の気持ちに寄り添いながら、これもむしろ本人のためだと思っていました。
でもほんとは違っていたのよね。当時15歳のあの子にとって、あれほどつらい松江の10年間はなかったと思います。あそこに逃げてくるしか無かったのかも知れません。そして、あなたと過ごしたわずかなリヨンでの時間は、私の宝物です。
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オオタが、妙子と別れ、新潟に戻ってからすでに15年の月日が過ぎていた。
この間、実家の和食店を手伝いながら、地元のデザイン会社で働き始めていた。しかし、その実家も、ワイズグループの詐欺まがいの買収劇に遭遇し、結局、当時、店を継いでいた兄は、3年前に自殺に追い込まれていた。
いつの頃からか、オオタが魚沼の街を歩くことも少なくなっていた。特に以前の店の前を通ることはめったになかった。まさか人生で二度までもワイズグループからの仕打ちにあうとは思いもよらなかった。
いくつかの恋愛もしたが、なかなか結婚に踏み切ることもなく、少しずつ年を重ねる両親の面倒を見ていた。最近の父は、めっきり頭髪も白くなった。料理人として兄と厨房になっていた当時の健気な雰囲気はすでにない。母親は、仏壇の前に座り、ひたすら兄の遺影にブツブツと話していることが多くなっていた。
ある秋のこと。稲穂が頭を垂れ始め、そろそろ稲刈りの時期だろうか、あたり一面が黄金色に染まっていた。
家のポストに一通のエアメールが届いていた。それは、突然の妙子からの手紙だった。
そこには、今、イツキと共にリヨンに住んでいること。オオタに詫びなければならないこと。義一郎のワイズグループが、実家を追い込んでしまったこと。自分の病気を隠していたこと。そしてこんなに早く病気が進むと思っていなかったこと。自分の命がそれほど長くないこと。そして、丁寧な謝意が何行も、何行も綴られていた。
我に返った時、オオタは、すでにリヨン行のエールフランスの機内だった。
そして、リヨン市内のブルレ通りの5階建ての薄ピンク色のアパートメントのドアの呼び鈴を鳴らしたのは、その22時間後だった。
「ターコ、お久しぶり。」
赤いギンガムチェックのひざ掛けと共に車椅子で出迎えた妙子にオオタは、優しく声を掛けた。15年という歳月が、ばねが双方から中心に戻るように一気に戻ったようだった。
「オオタさん…、」
妙子が、顔をクシャクシャにしながら笑みを浮かべ、次の瞬間、その瞳から涙が止まらなくなっていた。
もはや二人にそれ以上の言葉は何もいらなかった、リヨンでの奇跡に近い再会だった。
それから二人は、数日間、昔のように沢山の話をした。
オオタは、ため込んでいた自分を解き放すように言葉を続けた。オオタがキッチンで手料理を作り、妙子は、イツキの今の写真を見せた。こんなに大きくなったのかとオオタは驚き、〝ターコによく似ている。まるでターコではないか〟と何度も言った。
3日目の夜、義一郎の秘書だというルイーズを紹介された。
正直、オオタは複雑な気持ちだったが、二人が無二の親友だということを聞き、すべてを受け入れた。オオタは、人生は複雑なものだと思った。ルイーズは、オオタと妙子の身の上に起きたこれまでの話を聞き、オオタがリヨンにやってきたその勇気を称えた。そして、オオタの兄の不幸については、ワイズグループの一人として詫びた。オオタは、〝あなたが悪いわけではない〟とルイーズを許した。
4日目の朝、妙子の体調がいいということもあり、二人は、旧市街からフルヴィエールの丘へ向かった。赤と白のツートンカラーのケーブルカーで登りきると、リヨンの街が一望できた。
二人は、すり鉢状になった屋外劇場に腰を下ろした。
「リヨンがセーヌ川とローヌ川が出合う場所だって、ここから見るとよくわかるねー」
オオタが、右手を額に翳しながら話した。
「でも、川下から登ってきたら、二つの川に分かれる場所でもあるの。あなたは、ずっと川の流れを受け入れてきたけど、私は、川下から登ってきて、いつしか行くべき方向を間違えたのかも知れないわ」
「選んだ道を信じた方が幸福に生きられると思うけど」
オオタが、ちょっと変な話題にふったと後悔した。
「そうかもね。でも、この身体のことだけは、どうしようもなかったわ。人ってね、勝手にずっと生きているって思っているのね?誰もそんなこといっていないのにね。」
妙子は、ひざ掛けの半分をオオタに譲った。オオタは、その唐突な言葉にちょっと戸惑った。
「私がいなくなった後、イツキはどうするんだろうって…。」
オオタは、返す言葉を失っていた。
「ねえ、あなた、川の手前のところ、あそこに3羽の水鳥がいるのわかる?一列に並んで。222みたいに。」
妙子が、両手でVサインを3つ作ってみせた。
「こんなところから見えるわけないだろう」
オオタは、苦い笑いと共に返した。
「じゃあ、見えると思って聞いて欲しいの。」
「何?」
「あなたが信じてくれるのかは、わからないけど、私の夢はね、あの水鳥のように、昔、3人で散歩したあの公園の水鳥みたいに、ずっと3人で寄り添って生きることだった。でもね、私が選んだ道のせいで、あなたを苦しめ、悲しませて、そしてあなたに本来なら必要のない恨みまでも抱えさせてしまった。」
「兄のことは、偶然だよ。しょうがない。それにあの歩道橋の夜、君たちを手放したの
は、きっと僕の方なんだよ。僕は、僕で選んできた結果なんだよ。」
「この病気のことは、あの時、どうしても、あなたに言えなかった。必ず苦しめると思った。でも今、こうやって話しているなら、結局、同じだった。最後まであなたに隠しきることが出来なかったのだから。」
「人は、弱いんだ。だから強がる。鉄のベストを着るみたいにね、でも、僕は、そんな道でもその人は、正しい選択をしたのだと思うよ。」
「・・・・・」
「大丈夫、イツキちゃんのことは、力になるから…」
「いつか、あなたのそばでイツキの生きていく場所を作ってあげてほしい。」
「任せてくれ。必ず用意してあげるから。」
「ありがとう、私は、そこに間に合うのかどうか、わからないけど…、ごめんなさい。」
オオタには、あの日の中央線のか細い妙子の声に聞こえた。
リヨンの街に静かなパープルのレースが掛けられるように表情を変え始めた。オオタは、自分に掛かっていたひざ掛けをもう一度、妙子の膝に掛け直した。
オオタのもとへ、妙子の訃報がルイーズから届いたのは、次の秋が終ったころだった。
リヨンの街に静かな雪が降る、深夜のことだった。魚沼には例年より早い初霜が降りていた朝だった。オオタは、噛みしめるようにその訃報を握りつぶした。
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リヨンの約束を守ってくれて、本当にありがとう。あの子を預けられるのは、あなたしかいなかった。リヨンの夕暮れのなか、あなたのが「力になるから…」って言葉をくれた時、初めてあなたにお腹にあの子がいることを伝えたあの日の夜の電話と同じ言葉を思い出して、心が穏やかになりました。
でも、もう大丈夫よ。私たちの関係は、人生で初めてシンプルになったの。私は、そこにはいないけど。あなたをずっと好きなままでそばにいるの。本当に私たちのためにありがとう。
私は、人生のどこかで、あなたとまた、ゆっくり過ごせたりするのかなって、勝手に思っていたのかも知れない。
あなたの優しさに一番、甘えていたのは私なのです。さようなら。
太田信二様 益田妙子 拝」
太田は、一通り、読み終えるとその便箋を机に静かに置いた。両手を肩幅と同じ広さでテーブルに掛けたまま、頭を下げた。太田の目から涙がポタポタと床に落ちていた。ユージは、初めて、この人にとって、この店がどんな意味を持つのかを少しだけ知った気がした。
ルイーズが、ローズが少し香る白いハンカチを太田の右手にそっと渡した。太田はそれを申し訳なさそうに受け取った。
店には、すでに客もなく、誰一人、声を出すものはいなかった。
「ユージさん、これは、あなたへの手紙です。あなたが読む読まないは、お任せするけど、確かに私は、渡しましたよ。」
「ああ、はい。」
ルイーズがその封筒をユージの手にしっかりと両手で包むように渡した。ユージには、断る理由も勇気もなかった。
(15)旅立ち
新しい元号に変わった今年のGWは、10連休になり、さすがに忙しかった。一種の祝賀ムードで休む暇もなかった。平成の暗い幕開けとは随分と印象が違った。ユージやマスダ、ましてその他の若いスタッフには、もちろん30年前の記憶すらないが、太田や大将、マダムの世代は、殊更、その違いを強く感じていた。
ユージは、未だにルイーズから預かった手紙に手を伸ばすことができず、デシャップの脇にある自分専用のロッカーに置いていた。
この手紙を読んだら、自分の身の上に何が起きるのか、それを知るのがものすごく恐ろしかった。マスダのことは勿論気になるが、太田のあの涙の世界により添える自信がなかった。ただひたすら、日々の仕事に邁進しながら、何となく先送りする毎日が続いていた。
マスダは、東北旅行から戻ってからというもの、少し人が変わったように明るくなった印象だった。ルイーズが来たことを太田から聞くと、たいそう残念がりながらも、嬉しそうに応じていた。
GWの忙しさが一息つき、いよいよ本格的に新しい時代がスタートしたという矢先のこと。天気予報が、今年の梅雨入りが少し例年よりも早まりそうだと言っていたころのことだった。早番と遅番が全員揃う午後3時頃、ショータが、表の通りに出しているランチメニューの立て看板を丁寧に折りたたみ、軒下に立てかけていた。
「おい、みんなちょっと集まってくれないか」
珍しく太田が、皆に声をかけた。
全員が、何事かという顔をしながらフロアに集まった。チューヤンは、手にグラスとダスターを持ったままだ。
「まあ、みんな座ってくれ。」
各々が、太田を囲むように好きな席についた。
「実は、突然の話で申し訳ないのだが…今年の暮れで店を閉めることにした。」
一瞬、全員に動揺が走った。
「理由は、なんですか?」
最初にユージが食い下がった。
「しばらく前から考えていたことなんだよ。この時期が来たらってな。俺の田舎の両親のこともあるし、まあ俺もいい年だしな。」
「別にゲストだって減ってないし、いい感じじゃないですか」
ユージは、皆の代わりでさらに続けた。
「いや、まあ、とにかく色々とな。疲れたっていうかな…第一、ユージ、お前が一番、俺にやめてほしいんじゃないのか?この店・・」
「・・・・」
ユージは黙りこむしかなかった。
ショータがその空気を割った。
「実は、俺、この前、オーナーには話したんですが、大学に戻ることにしました。別に俺みたいな戦力外の選手が一人くらい、いなくてもこの店は、問題ないと思うけど、俺のせいじゃないっすよね、オーナー」
「ばか、うぬぼれるな!尊敬している監督が駅伝部に来たんだろ?もう一度、走る気になっただけ大したもんだ。で、お前の学生証は、有効期限が切れてんじゃないのか?」
太田が、優しく茶化した。
ショータが、腰のポケットからポイントカードやらなんやらでパンパンに膨らんだ財布から、学生証を取り出してみんなに見せた。
「ほら、帝都大学のマジ、学生っす」
そこには、確かに普段のショータの顔とは思えない真剣なまなざしをした表情が写っていて、その下には、青柳翔太の文字が書かれていた。
「出来損ないは、もう卒業しないとな…」
太田が笑った。
「ああ、でもたぶん、皆さん、また会えますよ、箱根駅伝のTVの中で!なんちゃって!」翔太が腕を組んで自信満々に話しているので、皆に笑いがこぼれた。
「まあ、今年のクリスマス前には閉めようと思っているので、みんな順次今後の進路を決めてくれ。12月までまだ半年間ある。何かあれば個別に相談にのるよ。話はそれだけだ。」
太田の話は、皆に大きな動揺を与えたが、どこか温もりを感じるものでもあった。
梅雨明けと共に今年の夏がやってきた。ユージには、アスファルトの照り返しが例年になく厳しい夏に思えた。
夏の初め、チューヤンは、一先ず、ベトナムに一時帰国することを決めた。家族を大事にするチューヤンにすれば、日本での生活は、あの笑顔とは裏腹な計り知れない苦労があったはずだ。送別会では、初めてベトナムの歌をみんなの前で披露した。
翔太と同じように「安心してください!帰ってきますよ!」と古いギャグで皆を沸かせて彼女は、太田から大きな向日葵の花束をもらって店を後にした。
銀杏の木が色づく頃には、ナツキが新しい発明に専念するために店を離れ、マダムが出資して起業することになった。ナツキは、送別会は泣いてしまうから嫌だと断っていたが、マストマスの大将が、どうしても一度だけゆっくり飲みたいと執拗だったので、太田と大将とユージ、そして紅一点のナツキの四人で一席もった。ユージは、マスダも誘ったが、女子会を別にやるので大丈夫。とやんわり断られた。
席上、ナツキは、皆に名刺を渡した。
「株式会社主婦の発明社 代表取締役社長 新村奈津貴」
大将は、いつでもうちの女将で戻ってきていいんだぞ。と冗談交じりに奈津貴の新たな挑戦を見送った。
今年の銀杏パウダーの処理は、太田が初めて業者に委託するからといい、ユージの仕事が一つ減った。その後、営業時間や営業日も少しずつ調整しながら、11月には、閉店のお知らせを店の前に貼りだした。連日、閉店を惜しむ常連客や、一度来たかったという客で満席が続いた。
太田は、配膳会にも助っ人を頼み、なるべく残っているスタッフが最後まで仕事ができるように戦力を維持した。
閉店の一週間前まで、マスダとユージが、お互いの進路について特別話すこともなく、淡々と忙しい日々が過ぎた。ルイーズからの手紙は、まだ、あのボックスに入ったままだった。
今夜も、懐かしいお客たちがマスダの料理を楽しんで帰った。太田は、その客と共にこの後一杯やってくると言いながら先に帰った。マスダとユージの二人が残っていた。
「あと、1週間だねー」
マスダが大きな伸びをして、赤いコックタイを緩めて笑った。
「早いな、毎日がこんなスピードで過ぎたら、あっという間に年をとりそうだよ」
ユージがレジを〆ながら返答した。
「私ね、もう1回リヨンへ行こうと思うんだ」
「えっ?」
予期していない言葉を聞き、ユージは戸惑った。
「太田さんには、結構、前に話したんだ。たぶん、店を閉める決断の理由の一つには、それもあると思う。」
「もっと早く言ってくれても良かったじゃん、そんな大事なこと、普通言わない?」
ユージは、やや怒り口調で話した。
「だってあなたは、私に何も聞かないじゃない?それって聞く必要ないんだよって、言っているのと同じ意味でしょ?」
ユージは、返す言葉を失った。
「リヨンに戻って、もう1回、あの場所から自分を始めてみたくなったんだよね。太田さんは、好きな選択をしたらいいって。」
「いつ、行くの?」
「クリスマス・イヴの夜、成田から。そしたら一人でも寂しくないっしょ。夜飛んで、翌朝パリに着いたらイブ明け」
マスダは、嬉しそうに話した。
ユージは、その笑顔と裏腹に、否応のない孤独感を感じていた。自分だけがまだ何も決められていない。メートルとして最後まで店を守る責任があるとか、勝手に自分に理由をつけて今日まで来た。
当然の責任だと決め込んで閉店の一週間前まで来てしまった。
太田からもユージは、どうするんだ?いつ辞めても大丈夫だと言われながら、何も動けないで、ここまで来てしまった。
それが、実はただ逃げていたことにやっと気づかされた。マスダの今後についても聞かなかったのではなく、一連のことを含めて踏み込めないだけなのだということは、自分が、悲しいほど一番わかっていた。
(16)第3の手紙―妙子からユージへ
営業最終日の12月21日は土曜日ということもあり、事実上、ここから年末モードというタイミングだった。限られた予約した取らなかったメール・ドウ・ノルドの最後の夜は、思っていたほど慌ただしくもなく、静かに終わった。
去年の今頃は、貸切の忘年会やクリスマスパーティーやらで、結局、カウントダウンイベントまで毎日がお祭り騒ぎだった。一息ついたらすでに年が明けていた。
ユージは、あの頃をむしろ懐かしく感じた。太田にブツブツと文句を言いながら過ごしていた自分が、今になれば、妙に子供っぽく感じられるくらいだ。
〝少し、大人になったのかな…〟
そんなことを思いながら、この店先を見られるのも、あと僅かかと思いながら、トリコロールの旗を店先から下ろした。
この店をずっと静かに見守ってきたトリコロールに、色々な場面が浮かんできた。
クリスマスイブの今日は、太田とマスダが仕入先やお世話になった方へ最後の挨拶回りということで夕方まで帰ってこない。ユージは、什器の引き取り業者やら細かい雑務を担当することにしていた。
これまで入念に閉店の準備を進めてきたせいか、手際よく作業は進んでいった。
師走の夕暮れは早い、気づくと外はすでに薄暗くなっていた。
交差点の信号機がやけにくっきりとしてきた。デシャップの脇の私物が入ったロッカーを整理していた時だった、ドアが開き太田が帰ってきた。
「ユージ、ただいま。お疲れさん。無事片付いたみたいだね。7年前に初めてこの店を不動産屋さんに紹介された日のことを思い出すな。いや、随分とすっきりとしたもんだ。」
太田は、そう言いながら、ユージに2つの缶コーヒーを差し出した。
「どっちがいい?無糖か?微糖か?」
ユージは、小さく頭を下げて微糖を手にした。
「シェフは、一緒じゃなかったんですか?」
「ああ、そのまま帰ったよ。フライト今夜だからな。色々と準備もあるだろうよ。それでも最後まできっちり仕事してくれたな、二人とも。感謝だ。」
太田は、ユージに向かって缶コーヒーを両手で挟みながら合掌した。
「やめてくださいよ…。らしくない。」
「そうか…、まあ、いい。あとは、明日、俺が大家さんに鍵を渡したり、諸々やるから。大丈夫だ。どうだ、大将のとこで一杯やるか。最後くらい付き合えよ。男ふたりのクリスマスイブも悪くないぞ」
そう言って、太田は店の鍵を見せた。
電気のスイッチを顎で示してユージを促した。
クリスマスキャンドルが消えるみたいに最後の店の灯が、フッと、消えた。
太田が店の扉のロックをしっかりと閉めた。
その夜のマストマスは、ガランとしていて、大将がカウンターに座って壁のテレビでサンタクロースの格好をしたコメディアンの番組を見ていた。
「いらっしゃい、おっ、珍しい二人だな。」
大将が引き戸の開く音に反応した。
「静かだね…」
太田がにやにやしながら冷やかした。
「そりゃそうだろうよ。クリスマスイブは、うちみたいなところは全然。オオタちゃんのところが毎年羨ましかったなあ。結構、ストレスだった…でも、それも今年で御仕舞だ。清々するよ。」
笑いながら、大将がカウンターから立ちあがって瓶ビールとグラスを二つ差し出した。
ユージは、手で制して、〝ちょっと〟というそぶりを見せた。
「なんだ、飲まねえのか?」
大将がそのグラスを自分の方に置いた。
「ユージ、飲めよ。俺のおごりだから。」
太田も被ってきた。
「いや、すいません。その前にオーナー、いや、太田さん」
「なんだよ、改まって…」太田が驚いた表情を見せた。
大将が、二つのグラスにビールを注いだ。小さな泡がモコモコと膨らんだ。
「手紙の件です。ルイーズさんからもらった手紙の件です。あれ、まだ読めてないんですよ。何が書かれているのか、ずっと不安で…。」
太田が、注がれたグラスに手を添えながら、人差し指でグラスのふちを一回りなぞった。
「そうなのか…読む、読まないは、ルイーズが言った通りだ。お前が決めろ。でも、読むなら、今、ここで読め。」
「なんか、読んだらズシリと何かが天井から落ちてくるみたいな、そんな気がして…」
「天井から落ちてくる?そんなんじゃないんだよ。お前は、自分の胸の中にあるものを解き放つことの方がきっと怖いんだよ。尚更、俺がそばにいてやるから、読むなら、今だ。」
「今でしょ!」と
大将が自分のグラスを、太田のグラスにちょこんとあてた。小さな乾杯の音がした。
太田が、グラスを口に運んだ。
ユージは、その先にある世界に踏み出す勇気を腹の奥底から絞り出すように封を開けた。
〝だってあなたは、私に何も聞かないじゃない?それって聞く必要ないんだよって、言っているのと同じ意味でしょ?〟
マスダのあの言葉が、まだ耳に残っていた。
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まだ見知らぬあなたへ
初めまして。あなたは、どんな方なのかしら?でもルイーズが判断したならきっと間違いがないはずね。
あの子の母です。どうぞよろしくお願いいたします。といっても、すでに私は、この世にはいないのだけれどね。おかしな母親だと思っていることでしょうね。
あなたは、私たちのことをどこまでご存知なのかしらね。
あの子は、きっとあまり話していないでしょうね。あなたにお会いしてゆっくりお話ししたかったですね。
今、あなたは、多分、あの子の心を推し量ることに、ずいぶん苦労していることでしょうね。その多くは、あの子のせいだと思います。私に免じて許してあげてください。
あなたが近づけば、近づくほど、あの子は、きっと強がってみせる。そんな子なのです。私たち親子の一時期の苦労した時期があり、その時のことが原因で、イツキはいつの間にか、本当の気持ちを伝えるのが苦手になってしまったの。
私が、今、この世にいないなか、あの子には一緒に歩いてくれる人は、誰もいないのです。実の父親からの確かな愛情すらあの子の掌に残っていないのです。
自分の存在そのものをずっと疑って生きてきました。消えてしまった方がいいではないかと、ずっと自分に問いかけながら生きてきました。苦しかったと思います。
あなたがどれだけあの子を想ってくれているのか、私がそばで感じられないのが残念でなりません。あなたが許すなら、あの子と一緒にこれからも歩いてくれたら嬉しいです。
勝手なお願いをお許しください。
あの子は、きっとこれからも先、自分のことを許しません。
だから、あなたが許してあげてください。
あの子は、きっとどこまでもひたむきです。
だから、あなたが応援してあげてください。
そして、あの子は、決して泣きません。
その時は、あなたが、一緒に泣いてあげてください。
夢を一緒に追いかけてあげてください。
追伸
ルイーズから是非、太田信二さんという方をご紹介されてください。あの子の幼いころからお世話になっている、私たちにとって、とても大切な方なのです。あの子のために都内で小さなレストランをやっているはずです。不器用なのに、私の願いを聞いて無茶して頑張る人。そんな人です。幼いころなのであの子には、あまり記憶は残っていないけれど、今、唯一、頼りにしている人だと思います。あの子を深く知るためにも、是非、お会いすることをお勧めします。
益田妙子 拝
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ユージは、見知らぬ妙子からの言葉に心が震える思いがした。太田が、店で床にポトポトと落とした涙の意味がはっきりと分かった気がした。そして、太田が作ったこの店の意味や思いが胸の奥に届いた気がした。時間を超えて自分が初めてマスダの近くに寄り添えたと感じた。
いつの間にか、ユージの前には、空っぽのビールグラスが置かれていた。太田と大将は、黙ったまま宙を見ていた。
「いいのか? このまま行かせて…。」
太田が、ユージの心の内を見透かしたようにポツリと言った。
「ユージ、お前は、俺と同じ道を行くな。」
太田の目が少し赤らみ始めていた。
大将が、一瞬、奥に入り、すぐに戻ってきた。そして、ユージの目の前にライオンマークがあしらわれたキーホルダーを差し出した。
「ユージ、息子の車だ、乗っていけ、成田行ってこい。お前の一番、大切なもの、ちゃんと掴んで来い。」
大将の分厚くてごつい掌がユージの背中を叩いた。
(17)メリークリスマス
クリスマスイブの成田空港は、あちこちでクリスマスの再会を喜ぶ家族や恋人たちが楽しそうに過ごしていた。イツキは、JRの改札口から出発ロビーへエスカレーターを上がっていた。
穿きなれたDIESELのダメージジーンズに、紺色とホワイトのグラデーションが気に入っているマダムに餞別にもらったひざ丈のコート。襟元には母からもらった形見のようなパシュミナの大判で使いやすいブルーのギンガムチェックのストール。体の脇にやはりネイビーのスーツケースを一つ、ぴったりと寄せていた。そしてCOLE HAANのナチュラルベージュのレザーリュックを片方の肩にかけていた。小さなクリスマスツリーがリュックの脇に揺れていた。
〝意外にみんなラブラブだ…〟
イツキは、少し自分の予想と違う空港の雰囲気に気後れしていた。出発の2時間前に着いたターキッシュエアラインのチェックインカウンターは、それほど搭乗客もなく、スムーズに手続きできそうだった。
「次の方!」と手が挙がった。
カウンター脇にスーツケースを置くと、日本語の上手なトルコ人女性らしき係員が
「お荷物はこれだけですか?」と聞いた。
「はい、」と答えるイツキ。
その瞬間、LINEが鳴った。
「ああ、ちょっと待ってください。」
ユージ「今、どこ?」
樹希「空港ですよ、ちょっと待って。後でね」
「すいません、お待たせしました。荷物はこれだけです。」
イツキが、遅れてパスポートとチケットも差し出すと、
「益田樹希さんですね。」と確認されながら、搭乗チケットに記されたゲートと搭乗時刻に赤いマジックで印をされた。
樹希は身軽になった。
再び、樹希はスマホを取り出しLINEを打った。
樹希「お待たせしました。」
ユージ「会えるかな?」
樹希「来たんですか?成田まで。」
ユージ「です。」
樹希「もう無理。イミグレ出ちゃいました。」
ユージが、泣き顔になったフライパンのスタンプを送ってきた。
樹希が、〝申し訳ございません〟と書かれた工事現場風のスタンプを送り返した。
ユージ「伝えたいことがあった。残念だ。」
しばらく樹希が既読スルーしたまま、1、2分が経った。
ユージにはとてつもなく長い時間だった。
樹希「うっそー!どこに居ますか?」
二人は、しばらくしてエアポートモールにあるカフェで落ち合った。フライトまですでに90分を切っていた。
二人は、同じカフェオレを頼んで、他愛のない話をした。
ユージは、無事に引き取り業者が来たこと。太田が珍しく自分を誘ったこと。大将の店がやはり暇だったということ。
樹希は、クリスマスイブはそうだね…と笑った。そして、最初は、パリに直行便で行くつもりだったけど、気が変わってイスタンブールに寄ってから行くことにしたこと。食の東西を少しだけ体験できそうだと話した。
ユージは、いいアイデアだと、そして君らしいと少し褒めた。
「そろそろ行かないと…。このゲートは、少し遠いんだよね。」
そう言って、樹希が立ち上がった。
「そうだね、急いだほうがいい…ね。」
ユージが少しだけ消化不良のようなぎこちない返事をした。
「で、伝えたいことって何だったの?」
リュックを片方の肩に背負い込みながら、樹希が話した。
「ああ、いいよ、これ片づける」
ユージの身体は、条件的に反射して、ふたつのカップをトレーと共に片付け始めた。一瞬、樹希の声が聴こえない素振りができた。と思った。
「なんか、ありましたか?忘れ物とか?」
樹希が、ユージの後ろから声を掛けた。
店を出て、南ウィングの出発ロビーへ二人並んで歩いた。
ユージだけが立ち止まった。
「樹希ちゃん。」
ユージが初めて下の名前を声に出した。
樹希が驚いて振り向いた。
その長い髪もリュックのクリスマスツリーも一緒に大きく揺れた。
「初めて呼びましたね。私のこと、名前で。」樹希が笑った。
「メリークリスマス…。」
ユージは、少しひきつりながら言葉を出した。
「メリー、クリスマス」
樹希も応えた。そして笑顔で続けた。
「ユージさん、もしかして昔のドラマみたいに、私に〝行くな〟とか言いに来た?」
「いやいや、まさか。」
「あー良かった。引き止められたら、どうしようかなって、少しドキドキしてた。じゃあ、行くね。」
「ああ、元気でな…。また帰ってくる時は連絡をね。」
ユージは、割り切ったようにしっかりと見送った。
「了解!」
樹希は、小さな敬礼をしてきちんと回れ右をして、出発ゲートへ消えていった。
ユージは、樹希の姿が完全に自分の視界から消えるまで見つめていた。そして小さな落胆と何か一つ大切なことを確かめた感触を持ちながら、さっき見た樹希の輪郭にゆっくりと背を向けた。
樹希は、背中で出発ゲートの壁の向こうにいるユージの感触を確かめながら、一人で小さく頷き、右手でガッツポーズをした。
7年間の樹希とユージの当たり前だった時間が終わった、
そして今までに感じたことのない意志を交換した瞬間だった。
今夜の空は、星が瞬いていた。
駐車場に止めた大将から借りた青いプジョーのボンネットに月が映り込んでいた。ユージは、その車に乗り込んで空港を後にした。
しかし、何となく成田空港から離れがたく、飛行機が飛び立つ様子が見える場所を探して、そこにエンジンをかけたまま車を止めた。次々と様々な国のエアラインが夜の滑走路を飛び立っていく。そのすべてに樹希が乗っているような気がして、次から次へと眺めていた。
トントン。
いきなり窓を叩かれた。警官が懐中電灯でユージの顔を照らした。
「運転手さん。何やってんの?」
「ああ、すいません。」ユージは、我に返った。
「運転手さん、免許証、お願いできますか?」
ユージは、おそるおそる差し出した。
「えーっと、水村祐司さんね。」
「はい。ちょっと友人、いや彼女を見送ってまして、すいませんでした。」
「こんなところで、停まってちゃだめだよ。この先に、もっとよく見えるとこあるから…」
警官の口元が少し笑った。
(18)そして
翌年の春から、祐司は伊勢王百貨店グループの系列レストランで働くことになった。
伊勢王グループのレストランは、祐司が自ら選んだ店だった。自分でもどうして、この場所を選んだのか問われるとうまく答えられなかった。しかし、なんとなく太田や妙子たちの時間に近い場所にいるような気がしていた。そして、何よりも樹希の近くにいた気がしていた。
メール・ドゥ・ノルドが閉店して1年近く経とうとした秋の頃。
今年も東京は、銀杏の黄色がキラキラし始めていた頃だった。
久しぶりに翔太から祐司に連絡があった。それによるとあの店の後に出来た店がどうなったか見に行かないかという話だった。祐司もしばらくあのあたりに行く機会もなく、最近の様子については疎かった。二つ返事で翔太の指定する日に休みを併せて店へ向かった。
裕司は、予定の時刻から5分ほど遅れて到着した。明治通りの脇に立つ店構えの骨格はどこか似ているが、明らかに全体の色彩も異なっており、どちらかというとアジアンテイストのエキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
翔太とは店の中で待ち合わせすることにしていた。
厚みのある木製の扉を開けた。
店内の調度品は明らかに違うが、同じようなテーブル配置の店になっていた。
奥の席で翔太が呼んだ。
「祐司さん!」
「おお、翔太、元気だったか?お前灼けたなあ。走ってんだ…」
そういいながら、翔太の前の木製のしっかりとした椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
脇から聞いたことのある声が聞こえてきた。顔をあげて、祐司は驚いた。
「どうだ、祐司、似合うか?」
なんと黒服に身を包んだ大将が、そこにいるではないか…。
「なに?いったいどうなってんの?」
デシャップからも声が掛かった。
「祐司さん、お久しぶりです!」
チューヤンが、シェフ帽を被り、赤いコックタイをしているではないか…。
祐司は、まるでだまし絵でも見せられているのではないかと思った。
大将の話では、この店のオーナーは、マダムであり、ベトナムフレンチの店なのだという。そして、大将が店をまとめているという。勿論、シェフはチューヤンだ。
「で、大将、サケトマスはどうしたの?」
「店は、息子に任せた。実はな、あいつ、俺に黙ってこの何年もの間、海外や日本各地の港でバイトしながら仕入れ先を見つけたり、魚のことを徹底的に学んできやがったのさ。1年ちょっと前に帰ってきたんだ。向こうでは同じ青いプジョーの話で盛り上がった日本人がいたとか、ビジネスマンのマグロのフィッシングファイトに船頭で付き合ったんだとかな、俺には理解できない話ばかりさ。まあ祐司があの日、空港に行けたのも、息子が帰ってきてたお陰のようなもんだな。」
さらに、太田からずっと以前に、この店を引き継いで欲しいと頼まれていたこと。しかし、一先ず、今のメール・ドゥ・ノルドは閉じたいというのが条件だったこと。太田自身の一つの自分の役割の終焉でもあったし、祐司が次に進むために、そして樹希が苦しんだ時のために、二人に帰る場所を作っておいて欲しいという強い願いがあったということを聞いた。実際、資金の多くは、マダムよりも太田が出しているとのことだった。
「そうだ、あと樹希ちゃん、今日、来るぞ」
と話したとたんだった、扉が音を立てて開いた。
樹希と奈津貴、そしてマダムが共に入ってきた。樹希はバッサリと髪を切り、ボーイッシュなイメージになっており、祐司は一瞬驚いた。奈津貴は、いっぱしのベンチャー企業の社長のようにパリッとしたスーツに身を包んでいた。
「ああ、大将、お久しぶり。ああ、チューヤン!」
樹希の歓声が上がった。
「樹希ちゃん、どうだ、これ似合うか?」大将がいう。
樹希と奈津貴が二人で、「いいね!」と手でサインした。
「ああ、祐司さん、翔太くんもー」樹希が見たことのない笑顔で笑っている。
祐司はその姿をみているだけで幸せだと思った。
マダムが、全員に向かって声をかけた。
「はいはい、静粛にね。私が新オーナーでございますのよ。祐司君だけに知らせてなかったんだけどね、この話は、ずーっと前から計画されていたのね。もとを話すとね、去年のね、私と大将と太田さんで呑んだ時ね・・・・」
大将が割った。
「いいじゃないマダム、まあまあ、こうやって、みんなを太田ちゃんがまた引き合わせたわけでさ。」
楽しいひと時だった。祐司も久しぶりに腹の底から笑った気がしていた。
宴席が終わり、祐司と樹希はふたりで少し歩こうという話になり、神宮外苑までゆっくりと歩いた。
「樹希は、全部知ってたの?今日のこと」
「まさか、最近のこと…私が、松江にお墓参りに帰るって話をマダムにしたとき、こんな話になったの。」
「翔太も仕掛け人ってことか…あいつ。さすがに逃げ足早かったな」
「どう?リヨンは?」
「楽しいよ、前よりもっとがんばっている。」
「あなたは、どう?」
「伊勢王グループのフレンチにいる」
「伊勢王と言えば、ホントのターコさんと太田さんの奇跡の出会いのあった場所だね。これからどうするの?」
「今はまだ、よくわからないけど、何か方向みたいのは、はっきり見えてきた気がするんだ。どこで働きたいとか、立場がどうとかよりも、どう生きていたいか…。自分に大切なものを一生大切にできるような人生は素敵だと思っている。太田さんみたいに。」
「素敵だよね、そういうの。」
絵画館前の銀杏並木道、ベンチに座った二人の周りは、夕日と重なって黄金色一色になっていた。
少しだけ風がそよいだ気がした。
樹希が肩にかけていた大判のパシュミナのストールを大きく開いて、長方形に畳んだ、そして、祐司の膝と自分の膝に半分ずつ掛けた。
「あったかい」
「そうだね」樹希が応じた。
しばらく二人は、黙っていた。
「さあ、行かないと。これから松江に行くんだ。」樹希が立ち上がった。
「そう、また東京に帰ってきたらね」
「どうかなー、帰りは、関空から行くかもしれないよ」
「なら、関空まで行きます!」自信満々で祐司が右手を挙げた。
「うそーっ?」樹希が驚いて笑った。
「祐司さん、また」
「ああ、元気でね。おれは、もう少しここにいるよ、松江行に乗り遅れたら帰っておいで。ここで待っているから。」
「ありがとう、じゃあね!」
樹希がバイバイと手を握ったり、開いたりしながら、その場から青山通りに向けて歩き始めた。ふたりの距離が、10mほど開いた時だった。樹希が振り返った。
「そうだ!言い忘れたことある。祐司さーん、いつかねー!」
そう大きな声で言いながら、片手でVマークを左から3つ作って並べた。
祐司は、一瞬戸惑ったが、それが、何かの意味であることを理解した。
そして、きっとこの先の時間の中で必ず解ける謎かけであることも確信していた。
祐司と樹希の間から3羽の鳩が、秋の夕暮れに飛び立っていった。
2つのレールの上を並行して走る列車は、やがてお互いの高さを変えながら、その上を走る首都高速のバスと交差した。そのバスは、中央分離帯を挟んで小さなスポーツカーとすれ違った。先ほどの2つのレールから大きな弧を描きながら高速道路の脇に寄り添って来るレールは東へ向かっている。その上を間もなく西へ向かう列車が通過するはずだ。この下に潜り込むようにクロスする明治通りには信号待ちの様々な車たち。信号が青になると一斉に右へ、左へ、そして真っすぐにと各々の目指す方向へ動き出した。
それぞれが目指す場所とストーリーを変えながら、重なりながら、交差しながら、でも、決して同じ一つのものになることはない。もしも、その街模様を高い空から眺めてみたら、一枚のギンガムチェックの布地を広げたように見えるのかもしれない。
<完>