Sanpouji Storyteller

交錯する都会の中で織りなす5人の男女の物語

眼鏡とベストとギンガムチェック(16)-海の章Ⅳ

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(7)ユージとチューヤン

 人気のないバスターミナル、泣き崩れているマスダのそばに人影が近づいていることにユージは気づいた。階下から上ってきた到着バスのライトで逆光になり顔や服装はよく理解できないが、どこかで見覚えのある男の影のような気がした。ユージがマスダに踏み出そうとしたとき、マスダが、その人影に抱き着いたように見えた。同時にバスのエンジン音とクラクションですべてがブラックアウトしたようだった。
 

 ユージは、踏み出した足を止めて、凍りついたようにただただ立ち尽くした。そして、そのままゆっくりと背を向けて、今上がってきたばかりのエスカレーターに平行する下りのエスカレーターに乗った。ユージの背中が闇の中に沈んでいった。
何もしてあげられない自分と勇気の小ささが喉の奥で乾いていた。その後、マスダがその男に、「肩を借りていいですか?」といって、さらに大きな声で泣き始めたのをユージは知る由もなかった。

 

 深夜の明治通り、昼間の喧騒が嘘のように車が居なくなる瞬間がある。その上に交差する高速道路。隣には、少し離れて弧を描く線路。さらにその西側を二本の段違いの線路が通っている。今夜は、その上に満月。春を待つ夜空は雲がない。だから余計に冷えている。その凍てついた空気の中、それらの風景が氷に秒針を止められたように佇んでいた。

 

 今夜のバスターミナルでの出来事で意気消沈したユージはその足でサケトマスに立ち寄った。自分でも悪い酒になると思いながら、大将に甘えるように、自分の中の不甲斐なさを、いつものオオタへの批判で少しでも慰めようとした。なんの解決にもならないことは、百も承知だった。いつもなら追い出される時間だったが、さすがに大将も見かねたのか、とうとうとオオタの話をユージにしていたが、今のユージの耳には届かなかった。正直、オオタの人柄がどうの、こうのどころではなかった。むしろ、あの黒い人影を消せる消しゴムがあったら、一気にゴシゴシやりたいような気分だった。

 サケトマスを出て、まだ人気のある店の前を通ったが、顔を出す気にもならず、やり過ごして駅へ向かった。途中で、まだチューヤンにバスターミナルへ行った後の話をしていなかったことを思い出しLINEを打った。

 

ユージ

「チューヤンが言うようにバスターミナルへ行ったけど、シェフには会えなかった」

チューヤン

「そうでしたか、心配ですね。シェフの様子がいつもと違っていたので気になってます。」

ユージ

「そうだね。何かあったのかも知れないね」

チューヤン

「今までもシェフが休みの時、何度かLINEで指示もらったけど、あんなふうに、レシピを何度も間違えることなんてなかったです。」

 

ユージは、〝そうだね〟と書かれたフライパンのキャラクターのスタンプを打った。

チューヤンも〝御意〟と書かれた人気の医師ドラマのスタンプを返した。

 

ユージ

「ねえ、これから会わない?」

チューヤン

「あー、いいですよ。さっきお店戸締りしてきたところです。どこかで寄って行こうかなって、思っていましたよ。」

ユージ

「了!では、前にショータと3人で行った店で落ち合おう。あそこなら朝までやってる」

チューヤン

「私、明日は休みです」

ユージは、〝OK〟と一言打った。

チューヤンはもう一度、〝御意〟のスタンプを返した。

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 二人は、ターミナル駅から2つ目の地下鉄の駅、歩いても程なく近い場所にあるベトナム料理店で合流した。以前、チューヤンが、ここが東京で一番おいしい店だと言って、ユージとショータを誘ってやってきたことがある店だ。オオタがチューヤンを激怒した日のすぐあとのことだった。

 

「ユージさん、ここのバインセオは、特に美味しいですよ」

 

「これ、食べたよな、この前。ベトナム風のお好み焼きだろ?」

 

「はい、最高です」

 

 二人は、メニューを吟味しながら、それほど重くないメニューを2,3品を選んだ。他愛のない世間話をしながら、仕事のこと、将来のこと、いろいろと二人で話した。意外とチューヤンとこんなに話をしたことがなかったことにユージは改めて気づいた。また、職場で見られない素朴で明るいチューヤンがちょっと眩しく見えていた。

 

「私、この前、オーナーから叱られた後、オーナーとご飯食べたんですね。」
バインセオの具をミントとパクチーの葉に挟みながら話し始めた。ユージは、ここでもまたオオタの話かと、ちょっとウンザリした。

 

「そう…」
関心がなさそうな振りをみせたが、チューヤンが続けた。

 

「で、なんであんなにオーナーが怒ったのか、ちゃんと私に話してくれました。知ってましたか?オーナーって30歳ぐらいのときに、一度、新潟に帰って実家のお兄さんがやっている和食の店を手伝っていたんですって。他の仕事もしてたみたいですけど。」

ユージが初めて聞く話だった。

 

「和食のおやじが、フレンチだなんて笑っちゃうな…んで?」
ユージは、タイガービールをボトルごと飲み干し、店員にもう一本!と人差し指で合図をしながらチューヤンの話の続きを聞いた。

 

「その時、はいずフード?あいずフード?なんか有名な会社あるじゃないですか?」

 

「ワイズフードのことか?あそこは凄いな、地方から出てきた…えーっと、確か山陰の方だ、地方の星、勢いがあるな。俺も一度、転職考えたよ」

 

「で、あの会社に実家が騙されたんですって?」

 

「昔のことだろ?そりゃ、いろいろあるんじゃないの?企業の成長の陰にはさ、そんなもんなんだよ、世の中。」
ユージは、突き放すように応えた。

 

「でも、結局、最後にお兄さんが自殺に追い込まれたんですって」

 

「…そうなん・・・・」さすがのユージも少し言葉を抑えた。

 

そして、合点がいった。

 

「あの店、確かワイズグループの東京初進出の〝かにそば〟で有名な店だよな。」

 

「そうだったんですよ。それを聞いて、私、逆に凄い謝りました。」

 

「でも、チューが謝る必要はないんじゃないの?それとこれとは別な話だろうよ。そりゃ、お兄さんの件は確かに気の毒だと思うし、そもそも身内の恨みがあったかもしれないけどさ、俺たちまで巻き込むな…って感じ。最初からそう言ってくれればさあ、俺だってさあ…少しはさあ…」
ユージは、出てきたばかりのタイガービールを半分くらいまで一気に呑みこんだ。

 

「ユージさんは、冷たい人なのか、優しい人なのかわからないですね…」

 

「オーナーは、そもそも人間的に合わないんだよ。5年前にシェフが来てくれっていうから、一緒に店移っただけでさ、でも、チューには、優しくしちゃうなー」

酔いがきつくなってきていると思ったが、頭と口が別な生き物に制御されている気がした。

 

「ユージさん、一つ、聞いていいですか?」

 

「なに・・・・」

チューヤンが、バインセオの油で汚れた指先をナプキンで拭き取り、一口だけ水を飲んでから言った。

 

「ユージさんって、もし、私とシェフのどっちかを彼女として選べ、って言われたらどうする?」

 

「なんだいきなり、その質問。」

 

「ハグラカサナイデクダサイ…」チューヤンが、いきなり片言の日本語になった。

 

「それは、チューでしょうよ、チューの方が可愛いし、愛想もあるし、おそらく料理のセンスも、シェフより上だと思うよ。」

 

「ソーユートオモイマシター。」また片言。

 

「シェフだよ!って素直に言ってくれたら、もっと好きになったのにな。やっぱ、ベトナムにはショータさんを連れて行こうっと。ユージさんは、いつも自分に嘘ばっかり。そして、男としては、スコシダケチイサイデスネ…」

 

 〝こいつ、都合の悪いとこだけ片言になりやがって〟と思ったが、あまりにも図星なことを指摘され、胸の奥に小さな棘を刺されたみたいな気がした。そして、気を取り直して言った。

 

「ああでもショータは、だめだ。どうせ来年も、再来年もあいつは、大学生だ…」

少し眠くなってきた目をこすりながら、ユージはやや引きつった笑いをした。時計の針は、すでに始発の電車を待つ時間帯に入っていた。

 

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(8)中央線

 ある冬の日、夕方のラッシュアワー
 東京駅中央線の始発電車の車内。窓から横並びに山手線と京浜東北線のホームが見える。車内は結構な込み具合だ。その男の隣に凛とした長い髪をブルーのギンガムチェックのリボンで束ねた女と赤いスーツケースが流されるように近づいてきた。途中次々と乗ってくる通勤客にスーツケースもろともクルクルと回転させられながら、2回転半したところで男の顎のすぐ下に、そのリボンはたどり着いた。

 女の左腕が伸びきったところにスーツケースがあり、そのままそのスーツケースが手の届かない場所まで行ってしまうのかと女は心配になったのか、さらにもう半回転してハンドルを持つ手を右手に取り替えた。丁度、男の左肩に女の顎先が触れるか触れないかという微妙な位置に変わった。女は小さな会釈をしながら、「これ新宿行きますか?」と男の左耳あたりに背伸びをして、囁くように訊ねてきた。

 男は、一瞬このシチュエーションに戸惑った。

〝これって、あのスターどっきり㊙カメラか?〟

「これって、新宿行きますか?あんまり乗ったことないもので…。」
もう一度左耳が聞いた。

 男は、気を取り直して都会で暮らす者の心得として対応することにした。
「神田、御茶ノ水、四谷、次が新宿です。ああ、でも何か事故か何かあったらしく、この時間は各駅停車なので10個目です。」

 女は、1つめ、2つめとドア上の路線図を見て頭を上下に動かしながら数え始めた。

「大丈夫です、僕が教えますので安心してください」。
男は、内心、まだどこかにカメラがいるのではないかと疑っていた。

神田まで二人は黙っていた。

御茶ノ水に着くまでに、女は「ありがとう」を1回、そして「ごめんなさい」を2回言った。

乗客が御茶ノ水で少しだけ降りた。ふたりの間にわずかな空気の流れができた。冬の乗客は、コートやダウンジャケットで結構な着ぶくれをする、少しでも降りてくれるとフッと楽になる。

総武線との乗り継ぎ連絡を待っている間、電車が止まってしまったのではないかと、女が心配そうな顔をしているので、男は、黄色い電車とオレンジ色の電車が、ここの駅で連絡していることを説明した。

その間に電車は動き出し水道橋に着いた。

女が北側の窓を目で指しながら、何を工事しているのかと聞くので、巨人軍のドームスタジアムが新しくできるのだと伝えた。

二人は、また飯田橋まで黙った。

市ヶ谷に着く手前で男は、後ろの恰幅のいい白髪の老人の生温かな吐息が右の耳裏に当たるその感じに不快感を覚えて、女の側に顔を少しだけ向けた。

四谷に着くまでの間、男は、あと5つで新宿だと伝えた。

信濃町につくまで、女は国鉄の路線図に見入っていた。東北新幹線は、上野が終着駅になっていた。

男は、千駄ヶ谷に着くとき、女のスーツケースに出雲大社の御守りと「HND」とアルファベットで書かれた航空会社の赤いタグが着いたままだったことに気づいた。

代々木駅のホームを滑り出したとき、少し戸惑いながらも男は聞いた。
「出雲空…」
その瞬間、次は新宿だという車内アナウンスにかき消された。新宿に着くまでの時間があまりに短かった。

 男は、改めて「新宿です。着きましたね。」と言い、女は、「ありがとうございます。」と言いながら、二人は、車両の奥から迫りくる見えざる力によってホームに押し出された。

 女は、軽く頭を下げたが、それに続く伝えるべき言葉を吐き出すこともできないまま、今度は、川の流れに押し流されるように、人ごみのなか、スーツケースと共に流され始めた。女は、自分で動いているのか、そうでないのか判断がつかなくなっていた。男は反対側の出口だったので二人の距離はみるみる開いてしまった。

 男が今一度振り返ると、揺れる人ごみの中に矢を通したように、わずかな隙間が開き、その小さな画面に、赤いスーツケースとブルーのリボンが階段の降り口で止まっているのが見えた。その躊躇している姿を悟った男は、幾重もの人の川の流れに逆らい、女のいる位置までかき分けるように動いてきた。

男はもう一度、女に声をかけた。

「スーツケース、下まで。」

「あっ、ありがとうございます。」

 男は、赤いスーツケースを持ちながら、階段を一歩ずつ降りた、その後ろを女が歩みを合わせて降りてきた。男は、航空会社のタグの下にアルファベットで、Tの文字が貼ってあったのを見つけた。

 

二人とスーツケースは、階段を降り切った。

 

 しかし、行きかう通勤客は、雪崩のように次々と階段の上から降りてきて、二人に猶予を与えることをしなかった。人ごみにかき消されるように二人は、再び小さく頭を下げ離れるしかなかった。

 

男は、素敵な人だと直感的に感じた。

女は、この街にも優しい人がいるのだと安堵した。

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 あれから1ヶ月近くが過ぎた。男は所用で都心へ向かっていた。乗りこんだ駅では自分が最後に乗り込んだのでドアのところに立つことにした。次の駅では反対側の扉が開いた。背後から鈍器で叩かれたように、人々に押されたので、ドアのガラスに向きなおった。隣の線路に左から電車が滑り込んできた。その電車のドア部分が重なるように正面になって停車した。

 そこで男はハッとした。

 そのガラス扉の中に、この前のラッシュワーのスーツケースの女が立っていた。向こうも気がついた。2枚のガラスの扉で空気を挟むようにしてお互いに会釈をした。女は思いついたように、突然、ドアのガラスに〝01〟と指で書き、次に指でVサインを作り、そして男の右方向を指差した。


 それを発車のチャイムがなっても繰り返した。やがて電車は、それぞれの方向へ走り出した。わずか2分ほどの都会の奇跡のような出来事だった。

 

 男は、数日間、この前の不思議な場面のことを思い出しながら、その意味を何度も何度も思案していた。伊勢王百貨店の前を通ったときだった。そのロゴが〝IO〟と書かれているのを見たとき、男は、すべての意味を理解することができた。
 あの時、01と見えたのは、もしや〝IO〟ではないのか?伊勢王百貨店のことではないのか?確かに彼女が指で示した方向に店がある。では、あのVサインは何なのだ?〝2階〟という意味ではなかったか。

 そして後日、その場所を訪ねた。

 2Fの婦人服売場を端から端まで歩いた。男がじろじろと各コーナーを見ているものだから、婦人客たちは少し気味悪そうな顔をしていた。しかし、男は、それどころではなかった。

 やっと、あの女の姿をみつけた。

「こんにちは。何とか謎が解けました。」

「見つけてくれましたね、ああ、あの時は、すいません。変な暗号みたいで。でもあの方法しかお伝えするしかなく。でも少しだけ期待してました。来てくれるの。」

「いえいえ、結構楽しかったです。知恵の輪みたいでした。」

「ホント、まともにお礼もいえず、その節は失礼しました。」

1985年、季節は春になっていた。男は25歳、女は24歳だった。

 

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(9)奇跡のひととき

 

 そんな神様の悪戯のような出会いを切掛けにして、二人の時間が始まった。二人は、お互いのことをよく話した。

 男は、田舎を出て二浪した結果、帝都大学の芸術学部で今、絵画を学んでいること。大学に残るか、このまま就職するか迷っていること。絵描きでは多分食べていけないだろうと思っていること。でも、絵を描く以外に目標が見つかっていないことを。

 女は、修学旅行で東京に来て以来、10年振りに東京に来たこと。あの時は、国電に乗らなかったので、さっぱり東京での動き方がわからないこと。故郷が嫌になって、都会で一人暮らしを始めようとして上京してきたこと。あの中央線で会った日が初日だったこと。友人の紹介で伊勢王百貨店に勤めることができたこと。最初は、正社員としての採用だったが、それを固辞して、無理に頼んで契約社員にしてもらったことを話した。

 男は、今の時代、正社員の口はいくらでもある。気が向いたら選べばいいと話した。
 女は、迷うことはないといい、どこにいても絵を描き続けることがあなたに大切だと話した。

 

 初々しい二人の時間が2ヶ月ほど過ぎたとき、女はこれ以上会い続けるのは難しいと男に電話で伝えてきた。

男は、その理由について執拗に何回も尋ねた。原因が自分にあると思った。

女は、男の執拗な問いに根負けした。そして、自分の中に〝ある命〟がすでに宿っていることを告白した。

 

男は、一度だけ深呼吸をして、黙った。

 

女は、〝ある命〟を自分一人で育てるつもりで上京してきたのだと告げた。そして、あの中央線の夜と同じように「ごめんなさい」と何回も受話器の向こうで言った。

 

男は、もう一度、深呼吸をした。

 

そして、君の力になるから…と告げた。

さらに、これ以上は何も聞かないから…とも告げた。

 

その半年後、
女は、自分にそっくりな女の子を産んだ。
男は、自分にひとつの生きる目的が見つかったと喜んだ。

 

男と女、そして〝その子〟の暮らしが始まった。

 

 男は一緒に暮らすことを望んだが、女はそれを反対したので、駅で3つほど離れた私鉄の駅に男は引っ越した。男は大学院で絵を描きながら、夜は、屋外広告の塗装や、ファッションビルのディスプレイの仕事で、わずかながらふたりを援助した。

 

 たまの休日には、よく3人で近くの公園を散歩した。雑木林の中にひっそりと佇むその古い池には、わずかだが湧き水が出ており水は清らかだった。池というよりは、小さな湖と言ってもいいほどの大きさだ。池の周囲には自然のままの凸凹とした道があった。対岸には張り出した部分があり、赤い屋根が印象的な観音堂と呼ばれる小さな仏堂があった。

 

〝その子〟の4歳の誕生日のことだった。女と〝その子〟は、観音堂が見えるベンチにいつものように腰かけた。ベンチの先から〝その子〟の白い靴下とままごとに使えそうな小振りのコッペパンのようなピンク色の靴だけがちょこんと出ていた。小さな踝にはブルーのギンガムチェック柄の小さなリボンがついていた。二人はいつもの歌を歌いはじめた。男は、そこから少し離れた池のほとりにしゃがみ込み、背中で二人の声を聴いていた。

 

「数字の1は、なーに、」

「工場の煙突」
二人はいつものように交互に唄った。

「数字の2は、なーに、」

「お池のがちょう」
〝その子〟は答えを言い当てるたびに、その喜びを全身を笑顔にして女に伝えた。

「数字の…」
そのとき、水面を水鳥が3羽、右から左へ一列に横切った。

それを見て女は歌を止め、そして、

「いつか、あんな風に過ごせたらいいのにね…。」とポツリと言葉を落とした。

〝その子〟は、あれっ?て顔をして女の顔を見上げた。

男が「そうだね…。」といいながら振り返ると、

女の視線が、祈るように観音堂を見ていた。

 

その夜、〝その子〟のささやかな誕生会を3人でやった。

〝その子〟は、4本のローソクを消した。

男は、心の底から幸せだと感じた。

そして、そんな気持ちを1枚の小さなポストサイズの絵にしたためた。

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(10)オオタの相談

 大将は、少し酔い加減で煙草をくゆらされながら話した。

 「これがな、俺が唯一知っているオオタちゃんの恋バナ「中央線恋物語」ってやつだな、今時めずらしい純愛だよな。自作の小説じゃないかと今でも思ってんだよね、俺は…。」

 今夜は、サケトマスとマダムの店、そしてメール・ドゥ・ノルドの3つの定休日が重なる季節に1回の日曜日の夜だった。オオタが、珍しくマダムと大将と三人で話したいといい、3つの店の丁度中間点にある、最近、オオタが気に入っている小料理屋に集まった。大きな檜の一枚板のカウンターに席が6,7席ほどあり、4人掛けのテーブル席が2卓ほど。白い調理衣が様になる初老の不愛想な料理人と30代後半くらいで愛想がよく清潔感のある和服姿の女将と二人だけでやっている。近所では、訳アリの二人だと噂されているが、真意のほどは誰も聞いたことがない。

3人は、テーブル席に座っていた。

「で、その後は、どうなったのよ」
マダムが疑いと好奇心を持った目で聞いてきた。

 

「もういいよ、やめてくださいよ。そんな昔の話…」
オオタが止めた。

 

「でもね、今夜はオーナーが呼び出しんたんだから、そのくらいのお土産があってもバチは当たらないと思うわよ。みんないい大人なんだし。ねえ、大将。」

 

「そうそう、老い先短い、わが人生かな…ってね、ねえマダム!」

 

「あら、失礼ね、大将!学年は一緒じゃないのよオ。」

今夜の大将は、いつものクールな感じが微塵もなく、オオタは少し不安を感じていた。

 

「ああ、それでな、この前、ユージがうちの店に夜中、結構、遅い時間だったな。そうだ、先々週あたりシェフがしばらく休んだろうよ、あのあたりか。ん?」
大将は、慣れないスマホのカレンダーを見ようとするが、老眼鏡をどこにしまったのかと、胸ポケットやら、カバンやらを漁り始めた。

 

「で、そのころ、なに?」
オオタが急かした。

 

「ああ、それでな、お前のことを訳のわからん経営者だとか、人使いが荒いとか、シェフの使われ方は特に酷いだの、チューヤンの将来を考えてやってんのか…とか、まあ、次から次へとまくし立てるように言うもんだからな…」

 

大将は、今度は、椅子から立ち上がって腰ポケットを触わりながら、やっと自慢の老眼鏡を見つけた。

 

「あった、あった、これいいぞ、ハマダルーペ。ぐにゃっ、てなるからどこにあるんだか、いつもわからなくなるんだよ。ハハハ。」
照れ隠しで、老眼鏡を天井の照明に透かした。

 

「で、それで!」
オオタは、さすがに苛立ちを隠さなかった。

マダムが場を元に戻そうと割って入った。

「でも、ユージ君にしては、珍しいわね、そこまで言うなんて。普段の仕事ぶりにはあまり私、感じないんだけど…」

 

「で!言うもんだから、どうしたのよ、大将?」

 

「お前の今の話をしてさ、オオタはいいやつなんだぞって…ユージのことたしなめたんだよ。なんかあったんだろうなあの夜…相当な感じだったよ。」

 

「大将も口軽いわね…ほほほほ。」マダムが笑った。

 

「あきれた大先輩だな…もう」

しかし、オオタには、大将に悪気があったわけでなく、自分を思ってのことだと心の底では理解していたので、それ以上、その件について責めることを止めた。

 

そして座り直して二人に向いた。

「で、ちょっと今日は、折り入って相談したいことがあるんですよ。真面目に。」

大将とマダムが椅子に座りなおしてオオタに向き合った。

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(11)思い出のかけら

 オオタは3人での宴席を終えた。時計を見るとすでに零時近かった。オオタの自宅は、メール・ドゥ・ノルドから地下鉄を1回乗り換えた3つ目の駅にある。直線距離ならわずかなものなのだが、間に大きな都立の庭園があり、それを外周しなければならない。昼間は、わずかなお金を払えば中を通ることができるので、季節がいい頃にはゆっくりと歩いたりする。運よく、今夜は周辺の道路がセットバックの工事の関係で封鎖され、特別に夜間開園しており、歩道として通行できるようになっていた。当然のことながら、夜、オオタがここを歩くのは、初めてだった。

〝大将があの話を持ち出したお蔭で、いろいろなことを思い出してしまった。〟

夜の庭園を歩きながらオオタの頭の中には、アルバムをめくるように当時の思い出が蘇ってきた。

 

 

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 あの幸せを実感した小さなバースデーから1年ほどしたころの冬のある夕方。オオタが、いつものように女のアパートを訪ねると、女は、部屋の暖房もつけずに、テーブルの前に座っていた。隣の部屋からは小さな寝息が聞こえていた。襖の隙間からは、少しだけ温かい空気が流れ出ていたのを覚えている。

 

「どうしたの?寒くないの?」

オオタは、アルバイト先の客からもらったという新潟の手土産をテーブルの上に出しながら声をかけた。

 

「・・・・」女の目は、沈んでいた。

 

「これな、<河川蒸気>っていうお菓子でさ、新潟のやつ。懐かしいなあ、意外に美味しいんだよ。お茶煎れようか」
オオタは、場を繕うように会話を繋いだ。

 

「いつか、こういう日が来るのかな…って思ってたんだよね」
女はやっと口を開いた。

 

 そして、オオタに1通の封筒を見せた。そこには、女の宛名があり、切手には「松江中央郵便局」の消印があった。女は、その白い封筒をオオタに差し出した。

 

「読んでいいの?」

 

 中には2枚の便箋、2枚の写真、あと名刺が1枚封入されていた。写真には女が〝その子〟と2人でいつもの池の公園のベンチに座っているもの、そして、同じ場面で〝その子〟の顔にフォーカスしたものだった。

 オオタは便箋に目を移した。1枚だけの短いもので、一枚は白紙だった。そこには、女を丁寧に気遣う言葉と手紙を出すことになった経緯、そして末尾に二つの質問が書かれていた。
 

 オオタは、最後に名刺を見た。聞いたことのない名前だった。「株式会社ワイズフード 代表取締役 山本義一郎」とあった。そして、女はこの手紙の差出人が、〝この子〟の実の父親だということ、そしてこの男には妻子があるということをオオタに伝えた。
山本義一郎からの問い掛けは、2つだった。


「〝その子〟が自分の子供でないのか」そして「松江で暮らす気持ちはないか」の2点だった。

 

 山本義一郎は、5年前から仕事の合間に女の行方を追っていた。そして、やっと居所をつかんだのは、2年前のことだった。しばらく女の様子を静かに見守っていたが、徐々に〝その子〟が自分に共通な何かがあることを動物的に感じ取るようになっていた。また女の生活が決して楽でない様子を窺い知っていた。

 

「松江なんて行かないだろ?今まで通りでいいよな…。」

 

 オオタは、女の反応をすがるような思いで見ていた。女が座っている椅子の下のバックから、もう一通、定形外のやや大きめの鶯色の封筒が顔をだしていたことにオオタは気づかなかった。

 

 その後、オオタがアパートを訪ねる頻度が少し減るようになった。今、新しい作品に取り組んでいるとか、アルバイト先の仕事が忙しいとか、正社員にならないかと言われていて色々と大変だということを理由にした。

 世間はバブル崩壊後の〝失われた10年〟という暗い時代だった。オオタ自身、自分の身をどうしていくのか迷いの中にいた。それでも、女と〝その子〟だけが生きる上での支えであり、励みであったことは、あの中央線の夜からずっとブレていなかった。

 3週間ほど過ぎた週末、オオタは、ある決心を持って久しぶりに女の部屋を訪ねた。オオタは、実家から送られてきたという数キロの新潟米を担いでいた。鉄製の外階段が少し長く感じた。通路側にあるキッチンの窓から甘い醤油の香り、そして女が鼻歌でいつもの「数字の歌」を歌っているのが聞こえた。

 ドアを合鍵で開けた。

 

「ああ、久しぶりだね、元気だった?あー、お米だ。うれしい。重かったでしょ?そこに降ろしていいよ。ありがとう。」

 

 その日の部屋はいつもの通りに暖かかった。女は何事もなかったように普段の笑顔だった。〝その子〟が小さな笑顔で奥の部屋から飛び出してきて、オオタの足元に抱き着いてきた。オオタがしゃがみ込んでそれに応えた。

 食事の間、二人は近況を話した。わずか3週間だったが、お互い長い気もしたし、短いようにも感じていた。

 

「絵はどう?進んだ?」

「でもね、今の時代に忙しいことはいいことよね」

女は、いつも以上に明るく何かを吹っ切れたように話していた。楽しい食事の時間が過ぎた。

 

「さあ、今日は帰ろう。明日も早いし…」

 オオタは、伝えようとしていた決心を言えぬまま、帰るべき時間になってしまった。しかし、オオタが、この夜、心のどこかに小さな安心を得たのも事実だった。オオタは、椅子にかけていたジャンパーを掴んだ。

 

「そう、じゃあ、2人でそこまで送るよ」

 女も立ち上がり、〝その子〟に子供用の椅子から降りるよう促した。アパートから大通りまでは、歩いてものの5分ほどだった。〝その子〟を間に挟んで左に女が、右側をオオタが歩いた。


「数字の2は、なあーに」女が歌った。

「お池のガチョウ」〝その子〟が続いた。

「ガー、ガー」オオタが、明るく鳴いた。

 

 大通りに出ると道路を挟んで歩道橋があり、3人はいつもここの上で別れる。3人は、いつもの場所で歩みを止めた。

 

「じゃ、ここで。」
オオタがいつもと同じ別れの挨拶をした。

 

「オオタさん、」女の表情が変わっていた。

 

「なに?」

 

「私、松江に戻ることにした。」

 

「えっ?どうして?」

 

「いろいろと考えたんだよ。あなたのこと、〝この子〟の将来のこと、自分のこともね。それにもうすぐ小学校だし。」

 

「それなら…、だからね…」と、オオタが一瞬割り込んだが、女は制するように続けた。

 

「今って、凄い幸せだと思ってるよ。それだけは信じてて。でも、あなたには、私たちを支えるのは荷が重いと思うの。こんな時間がずっと続くわけないじゃない。」

 

「ターコ……」

オオタは、喉の奥に何かがつっかえて、名前に続く言葉が出てこなかった。

 

「楽しかったよ5年。来週には松江に帰る。だから今日を最後にしよう。」

あまりに突然でなんの余地もない別れだった。

オオタは、天地がひっくりかえるような感覚の中にいた。

〝その子〟の手が左手から離れた。女が今来た歩道橋を降りていく、そして闇の中に帰

っていった。

 

「数字2は、なあーに…」

 闇の中で車の走る音で歌声がかき消された。女は、左手の小指で右目からこぼれた一粒のしずくをぬぐった。

 

 アパートの玄関には、ズシリと置かれたままの新潟米の袋。それは二人が降ろした大きな思い出でもあり、これまで抱えてきた荷物の大きさにも似ていた。その横の郵便受けには、新たに届いたもう1通の鶯色の封筒が入ったままだった。

 

 あの中央線の夜から6度目の冬が始まろうとしていた。

オオタ31歳、マスダタエコ30歳、イツキは5歳の誕生日を控えていた。

 

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 オオタは、いつしか園内のベンチに腰掛けていた。いい月夜だった。桜の蕾が少しずつ膨らみ始めているのをボーっと眺めながら、すべての記憶を細かく集めてできるだけ確かなものにしようとしていた。

 足元に早咲きの河津桜の花びらが、どこからともなく飛んできて、オオタの革靴の先に止まった。花びらが、あの日見たイツキの小さなコッペパンのようなピンクの靴に思えて、ベンチから立ち上がった。

 そして、公園のもう一方の北側の出口へ向かって歩き出した。

 

「数字の2は、なあーに…」

オオタは、苦手な歌を口にした。

 

「お池のがちょ…」

一息で歌おうとしたのか声が続かない

 

「ガッ、ガッ…」

むせて小さな咳と涙が同時に出た。

 

オオタの胸の内を見透かすように星々が降っていた。

 


ハッピーエンド / back number (cover)