Sanpouji Storyteller

交錯する都会の中で織りなす5人の男女の物語

眼鏡とベストとギンガムチェック(14)-羽の章Ⅲ

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第14章

 

 

 

 妻の櫻子のスマホ帝都大学駅伝部の同期の波野辰次郎から突然の電話が入り、秀幸に変わると「秀に会いたい…」との用件だった。

 まだ秀幸は、辰次郎を含めかつての駅伝メンバーに会える心の準備ができていなかったので、「仕事が忙しくて…」を理由に会うことを拒み続けて1か月弱が経過した。しかし、再三辰次郎から連絡が入り、ついには「秀に渡したい物と会わせたい人がいる…」と思いもよらない切実な言葉に、乗る気ではないながらもやむを得ず会うことを約束した。

 

 2月もあと数日で終わろうとする春まだ遠き寒いある日のこと。辰次郎から指示のあった店の最寄り駅に着いた。この駅は秀幸にとっては、かつて高校の3年間と大学の4年間の計7年間、通学のために乗り降りした駅だった。卒業して以来30年来ていない駅だったので、駅舎はもとより駅前の風景は秀幸が知っている風景とは全く変わってしまっていた。

 

 辰次郎から指定のあった店は、駅前商店街にある中華料理屋『スイセイ』だった。ここは学生時代の7年間数え切れないほど通った店で、部活後の食欲旺盛の男子のスタミナ源になっていた。ここも大学卒業以来の訪問であった。

 秀幸は駅から徒歩5分圏内にあった店だと記憶していたが、駅前の様子の変化に探すのに一苦労だった。慣れないスマホの地図アプリを頼りにたどり着いたが集合時間より10分遅れてしまった。

 

 「いらっしゃい!」と若い女性の声が掛かった。

 

 「あら、秀ちゃん。久しぶりね…箱根駅伝大会で秀ちゃんがあんな風になってしまって、とてもおばちゃんも朋子も心配したのよ…」と店の奥から年老いた背の低い白髪まじりの女将と秀幸と同世代の娘の朋子が皿洗いをしていた手を止めて秀幸に近寄りながら話しかけて来た。

 

 「あ…女将さん、朋ちゃん…大変ご無沙汰しております。心配かけて悪かったね…ごめんよ。今はすっかり大丈夫。2人ともお元気でしたか?」秀幸は2人を見つめた。

 

 「私は81歳になってしまったけど、なんとか生きているわよ。」と女将が答えた。

 

 「マスターは?」と秀幸が辺りを見回した。マスターとはこの女将の夫で、以前は厨房で中華鍋を振っていたが、今厨房で背中を向けている男はどう見ても自分が知っているマスターとは違うと感じた。

 

 「主人は、数年前にガンで亡くなったのよ。今は朋子夫婦にこの店を任せて私は忙しい時だけ手伝うようにしているのよ」と学生時代に通っていた頃の元気の良い女将に比べて、年のせいか元気がないように感じた。

 

 「厨房で調理しているのはどなた?」と秀幸は聞いた。

 

 「あれは、私のダンナよ。後で秀ちゃん達に紹介するわ…」と朋子は微笑みを浮かべて厨房へと戻った。

 

 視線を右に向けると奥のテーブルから「こっち、こっち」と手招きする男は、学生時代とちっとも変っていない辰次郎とひと目で分かった。

 

 「辰はこの店にはよく来るの?」と秀幸は女将に聞いた。

 

 「まあ、ときどきね…。さっきから秀ちゃんのこと待っているから、早く行ってあげて…」と秀幸の背中を手で軽く押してくれた。

 

 「いい加減早くこっち来い!10分も遅刻したうえに、いつまでそっちでしゃべってるんだよ!」しびれを切らした辰次郎が立ち上がって秀幸を呼んだ。

 

 「相変わらず、辰はせっかちな奴だね…」と秀幸が女将に同意を求めようとすると、女将もはニコニコと笑いながら「どうぞごゆっくり…」と店の奥へ行った。

 

 秀幸が椅子に腰かけるやいなや、辰次郎が「何飲む?ビール?」と聞いてきた。

 

 「俺はノンアルビールでいいよ…」

 

 「秀は酒が飲めないのか…。朋ちゃん!生中とノンアルビールをお願い!あと、いつものおつまみと焼き餃子を各2人前ね…」と辰次郎は注文をした。

 

 しばらくして朋子が生ビールの中ジョッキとノンアルコールビール、さらにこの店一押しのつまみのチャーシューを運んで来た。

 

 「うわっ!このチャーシュー久しぶり!」と秀幸は割りばしを即座に割って一口食べると、

 

 「美味い!女将さん、全然味変わってないよ」と言うと、奥で椅子に座っていた女将が笑いながら手を振っていた。

 

 「じゃあ、30年ぶりの再会に乾杯だ。」

 

 グラスが軽くぶつかる音がした。

 

 「秀、久しぶりだなあ…あのアクシデントが起こった昭和64年1月3日の箱根駅伝以来だよな…。あれからどうした?…今は元気なのか?…さくちゃんといつ結婚したの?…幸せ?…子供はいるの?…今どこに住んでるのよ?…仕事は?…」

 

 機関銃のような辰次郎の質問攻めに、秀幸はめまいや頭痛がしてきた。「あ…やっぱり来なきゃよかった…」と思いながらも、辰次郎のこういうしゃべり方は以前と全く変わっていなかった。

 

 秀幸は30年前の箱根駅伝のレースで倒れてから今日までの身の上話をした。

 

 「ふ~ん…そうだったか…。秀も大変だったな…。あの時の駅伝メンバーで30年ぶりに再会する最初の人が俺とはね…。誠に光栄ですな…」

 

 辰次郎が最初のビールを飲み干したが、秀幸はまだ一口しか飲んでいなかった。

 

 「朋ちゃん、同じの!」と辰次郎が空になったビールジョッキを朋子に向けて高らかに上げた。

 

 「は~い!…いらっしゃいませ!」と朋子の声が再び店内に響いた。

 

 ふと秀幸が入口を見ると、大きめのサングラスをかけた50代の男性が店に入って来た。50代の男は秀幸の方をチラッと見たが、すぐにカウンターに座った。

 店内はすでに満席状態で、「相変わらず人気のある店なんだな…」と秀幸は思った。

 

 「でもな、秀が思っているほど、あの時お前がゴール直前で倒れて、初優勝を逃したことなんて、最初から誰もなんとも思っちゃいないよ…。秀の昔からの悪い癖…考え過ぎ…。むしろ、あの時はむちゃくちゃ、みんな秀のことを心配したんだぜ。俺なんか秀が死ぬんじゃかと思ったよ。病院に行きたくても意識不明の重体だから面会謝絶だし…意識が戻っても、秀が大学の駅伝関係者には会いたくない…とかで、そんなんだから、その後はみんなも会いづらくなってしまって…。誰とも会わずじまいの30年で今日に至っているという訳よ…」

 

 辰次郎が運ばれて来た2杯目のビールを口に付けて、泡が上唇に付いたのをおしぼりで拭き取った。

 

 「そうか…。みんなは俺の事そんな風に思っていたのか…。でもな、俺の立場に立てば、あれほど死に物狂いに毎日練習して、やっとの思いで取れた箱根駅伝への出場資格だよ…。いざレース本番になったら、5区の夏雄が5人ごぼう抜きの区間新記録で往路優勝を果たし、復路はスタートから9区の辰まで1位独走で鶴見中継所まで来て、俺に襷を託された。帝都大学駅伝部初出場、初優勝を目の前にして、無残にも俺はゴール前で倒れた…。こんなみっともないストーリーがあるか?どの面下げて、みんなに会えるよ…。仮にみんなから慰められても、それはそれで余計心が痛むよ…」

 

 「まあなあ…その立場に立てばな…」と辰次郎はチャーシューと焼きたての餃子を食べながらしみじみと語った。

 

 「その話は止めようぜ。ところで、さくちゃんは元気か?あいつも附属高校から大学まで俺達と一緒だったからな…。よく俺達とつるんで遊んだよ…。可愛かったよな?俺はてっきりイケメンの夏雄と一緒になると思っていたのに、秀とさくちゃんが結婚するなんて想像もつかなかったぜ。」

 

 秀幸は櫻子とのなれそめを話し始めた。

 

 「へ…。さくちゃんだけは心許して会っていたのか?…。秀の心情と体のことを心配して、懸命に看病している内にお互いに恋心が芽生えたってやつか?ん?…。まあ、せいぜい彼女のことを大切にしろよ…」と辰次郎が秀幸の肩を叩いた。

 

 「ところで、辰は卒業して以来どうしていたんだ?」と今度は秀幸が辰次郎の様子を聞いた。

 

 「俺か?…俺にもいろいろあってな…。知っての通り、大学卒業当時は世の中がバブル経済真っ只中だったろ…就職なんていくらでもあった時代だ。お陰様で俺は四大証券会社のひとつに就職した。土地や株の値段がバンバン跳ね上がっていく時代だよ。億単位の金が右から左へ、左から右へと毎日流れていく。億単位の金銭感覚がおかしくなってきたね…。毎晩、銀座、六本木の高級クラブで資本家やビルオーナー相手にドンペリやロマネコンティを開けていたよ。

 しかし、しょせんバブルはバブル…。バブル崩壊とともに金融機関は貸し付けたお金が焦げ付いちゃった訳よ…。そうなると損失隠しをするんだけど、そんなことはすぐにバレて、結局経営破綻で平成9年にうちの会社は廃業してしまった…。覚えているだろ?『私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから…』って、立ち上がり号泣しながら記者会見した社長…あれうちの社長だから…。

 元四大証券の敏腕営業マンだからすぐに再就職先が決まると思いきや、どこも雇っちゃくれない…。ようやく片田舎の信用組合に就職できたけど、上司との折り合いが悪くってねえ…3年で辞めちゃったよ。

 人並みに結婚もしたんだぜ。子供も2人出来てさあ…。でも10年前に離婚しちゃったよ…。勘違いすんなよ!俺の浮気じゃないからな…。子供の親権はカミさん側。今は大手不動産会社の下請けで、練馬で小さなビル管理会社の社長をしているよ…。もっとも社長と言っても従業員は2人だけどな…。わがままなビルオーナーや店子のクレーム処理に毎日都内近県を動き回っているよ…」

 

 秀幸は辰次郎の大学卒業から30年の経歴をニコニコと笑いながらしゃべってはいるが、「あ…こいつも苦労したんだな…」と感じた。


 

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 「ところで、俺に会わせたい人がいると言っていたけど…」と秀幸は場の空気を換えた。

 

 「おお…そうだ、そうだ!忘れていた。おい!気取ってサングラスをかけてカウンターに座っているおっさん、こっちへ来い!」と突然辰次郎が立ち上がった。カウンターに座っていた男は飲んでいたビールジョッキとおしぼりを持って、こちらのテーブルに近寄ってきた。

 

 「辰は相変わらず話が長いな…。待ちくたびれて酔っぱらっちゃったよ…」と50代の男は辰次郎にボヤきながら、サングラスを取った。

 

 秀幸がまじまじとその男の顔を見ると、

 

 「ん…?伸一か…?」

 

 「おお…秀。久しぶりだね…。」

 

 守田 伸一。伸一は秀幸や辰次郎、夏雄と同じ帝都大学附属高校から帝都大学卒業まで学校がずっと一緒だった同期生である。

 4人は帝都大学附属高校の1年生の時に陸上部で出会い、お互い長距離ランナーで切磋琢磨した仲だった。部活以外でもよくつるんで遊んだ気心知れた親友だった。

 高校卒業後、4人はエスカレーター式に帝都大学に進学し、迷わず駅伝部に入部し、箱根駅伝出場を目指して毎日死に物狂いで練習に励んだ。

 大学4年生の時にようやく箱根駅伝の予選会で出場資格を勝ち取り、昭和64年の第65回箱根駅伝の正選手10名枠に秀幸と辰次郎、夏雄、そして伸一らが選ばれた。監督から伸一は往路の1区を、夏雄は箱根の登りの5区を、辰次郎が復路の9区を、秀幸が最終区の10区を走るように指示された。4人はともに喜び合い、必ず総合優勝を成し遂げようと誓い合った。

 

 伸一が秀幸に握手を求めてきた。秀幸は目をパチパチさせながら「あ…あ…」としか言葉が出ず、状況が飲み込めないまま、伸一と握手をした。

 

 「辰、これはどういうことだ…?!」秀幸は、まためまいと頭痛がしてきた。

 

 「ちょうど伸一が東京へ出張に来ると言うんで、今日ここに呼んだのさ。まずは改めてみんなで乾杯しようぜ…」とグラスが鳴る音がした。

 

 秀幸はようやく状況が飲み込めた。辰次郎が伸一に、「秀にお前の現状を聞かせてあげてよ…」と言われたので、伸一は身の上を話し始めた。

 

 「僕は君達たちと同じ平成元年3月に大学を卒業して、新聞社に就職した。最初の赴任先が阪神支局に配属となったが、平成7年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生した。今までに経験したことのない揺れだった。惨事は君達の記憶にも残っているだろ?…。

 僕はただただ地獄絵図に呆然とするだけで、新聞記者として状況を正しく伝える記事が書けないし、苦しんでいる人を目の前にしてなんの役にも立てずにいた。

 そんな自分は自己嫌悪に陥り、いわゆるうつ病になってしまい、新聞社を辞めてしまった。その後はあらゆることにやる気が失せてしまい、神戸で引きこもり生活が1年続いたんだ。

 新聞社の時の上司が僕を心配してくれて、「自分の実家は北海道で弟が畑や田んぼで農作物を生産しているが、そこに行って気分転換でもして来いよ…」と言ってくれて、自分も「このままじゃいけない…」と思って誘いに任せて弟さんがいる北海道へ赴いたんだ。

 そうしたら、自分に農業が合っていることが分かって、土いじりや酪農が楽しくなってしまい、以来北海道で農業や酪農に従事しているんだ。

 初めて自分が生産した米やジャガイモ、人参をここスイセイのマスターに食べてもらおうと北海道からカバンに入れて持って来たんだ。マスターが「こりゃ、美味い!」って言ってくれて、それ以降僕の作った農作物を直接注文してくれるようになったんだ。今じゃ、北海道はもとより全国に知られる会社になったんだぜ。秀が持っているスマホで『伸一ファーム』って検索してみてよ。」

 

 早速、秀幸はスマホで検索してみた。伸一ファームが北海道で多角化経営をしており、広大な土地で農業、酪農を営んでいることが書かれていた。

 また、その敷地内の工場では生産された野菜や乳製品の加工食品まで手掛けており、北海道の定番のお土産商品としてSNSで評判になり、道内の各空港やターミナル駅で売られている。その中でもチーズケーキは絶品と評され、秀幸でさえ知っているほどの有名な商品だった。それが伸一の会社で生産されていたとは知らなかった。

 

 「へ…伸一もたいしたもんだな…」と秀幸は感心した。

 

 「おい!伸一、このサイトに写っているお前の写真、着ているベストって、あのベストか?」と辰次郎は秀幸が持っていたスマホをのぞき込んできた。

 

 「おっ、気が付いてくれた?」と伸一が言った。

 

 「これって、伸一の実家の洋服屋で、伸一の親父さんが数を間違って問屋からベストが大量に納品されてしまったやつだろ?こんなにあっても売り尽くせないからって、俺達の箱根駅伝大会出場を祝って、出場メンバーにくれたんだよな?…。4人でこれを着てナンパしに出掛けたけど、周りから気持ち悪がれてさあ…、でも夏雄だけがモテたんだよな…、懐かしいベストだな…。伸一は今も着ているのか?」と辰次郎が思い出したように語った。

 

 「今じゃ、このベストはうちの会社のユニフォームなんだよ…」と伸一が自慢気に行った。

 

 「俺このベストどこにしまっただろうか…?帰ったら探してみるよ。秀幸はこのベストは今も持っているのか?」と辰次郎が唐突に聞いてきた。

 

 実は秀幸は今もタンスにしまってあり、ときどき着ているが、恥ずかしさもあって素直に「あるよ…」とは言えなかった。

 

 「今度は夏雄もこの店に呼んでさあ、みんなでこのベストを着て集まろうぜ!」と辰次郎が提案をした。

 

 「朋ちゃん!今度は水餃子。それとハイボール…。これとこれとこれをちょうだい…」と辰次郎はテーブルにあったメニューを指さして注文をした。

 

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 「夏雄で思い出したけど、夏雄から手紙が届いたぞ…。君達にも届いているだろ?」と伸一がおもむろにカバンから白い封筒を取り出した。表には『守田 伸一 様』、裏の差出人には『帝都大学 駅伝部 監督 堀越 夏雄』と書かれていた。

 

 「俺にも同じものが届いているぞ…」と今度は辰次郎がカバンから封筒を取り出した。

 

 「この手紙、秀にも届いているよな…?」と辰次郎が秀幸に聞いてきた。

 

 「………」秀幸は返答に詰まった。よもや「失くした…」とは言えなかったからだ。

 

 秀幸の困惑した顔を見て、辰次郎がクスクスと笑い出した。

 

 すると、辰次郎がカバンの中からクリアファイルに入った同じ白い封筒を取り出した。それには表に『寺嶋 秀幸 様』と書かれていた。

 

 「あっ!それは…!なんで辰が持っているんだ?」と秀幸は大きな声を上げた。そのせいで奥にいた女将が心配そうに店内に出てきた。

 

 「おい!秀、乱暴な言い方するなよ!どうして俺がこの秀宛の封筒を持っているか今説明してやるからよく聞けよ。」と辰次郎は前のめりになって語り始めた。

 

 「秀は1月に帝都大学病院へ行く際にこの封筒を持って出かけただろ?しかし、秀はこの封筒を知らぬ間に病院内で落としたんだよ。それを偶然に拾ったのが、帝都大学の現役学生で元駅伝部の青柳 翔太 君という青年だったんだよ。その翔太青年はその封筒の差出人を見たら、自分が元いた駅伝部で、今年我が校の初の総合優勝を成し遂げ、今や時の人となっている駅伝部 監督の『堀越 夏雄』と書かれていた。

 一方、宛名には30年前に我が校の箱根駅伝大会初優勝目前のゴール前で倒れた伝説のランナー『寺嶋 秀幸 様』と書かれていたので本人びっくりよ。

 この名前を見てしまった以上その封筒を放置するわけにもいかず、かと言って自分から大学の駅伝部監督室を訪れて夏雄に会って返すこともできず、困り果てた挙句にそれを持って病院を出て、なじみのお店『サケトマス』に行って店の大将に相談したそうだ。偶然にも俺も『サケトマス』の常連客で、俺が帝都大学の駅伝部OBだったことを知っていた大将は俺に連絡して来て、巡りめぐって今日このように秀の手元に無事に戻って来たということだ。

 感謝されることはあっても、乱暴なこと言われる覚えはないぞ!…」と辰次郎がドヤ顔で言ってきたので、秀幸は「それは悪かった…」と平謝りをした。

 

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 店内の客は秀幸達しかはおらず、厨房で中華包丁を研いでいた男が壁の時計を見て、厨房から店の外へ出た。

 外にかかっていた暖簾を片手に持ちながら店内に戻ってくると、「マジで辰の話はまどろっこしくて長いよな…。せっかくの熱々の水餃子が冷めちゃったじゃねえかよ…」とぶっきらぼうに男は暖簾をカウンターに置き、秀幸達のテーブルにずかずかと近寄って来た。

 

 「うるせぇ!お前こそもう少しメニューのアレンジを増やせよ!マスターの時代とメニューが全然変わってねえじゃねえかよ!」と辰次郎が立ち上がり男の襟をつかんだ。

 

 「おい!やめろよ。なじみの店で喧嘩するなよ!女将さんや朋ちゃんに迷惑が掛かるだろ!」と秀幸が止めに入った。すぐに振り返り「すみません。こいつ弱いくせに喧嘩っ早くて…」と言いながらその男の顔を見ると、

 

 「ん…?」と不思議がる秀幸は男が被っていたコック帽を取った。

 

 辰次郎と伸一はその光景を見て、ケタケタと笑い始めた。

 

 朋子がエプロンを外しながら秀幸のテーブルに近寄って来て、「秀ちゃん、その人誰だと思う?秀ちゃん達と同期で、帝都大学駅伝部で昭和64年の箱根駅伝大会に一緒に出場して、3区を走った長谷川 拓馬よ。今は私のダンナ様。」と語った。

 

 「あ…もう、訳わかんない!今日は今まで疎遠になっていた当時の駅伝メンバーがいっぺんにたくさん現れて来て、頭が割れそうに痛い!でも、どうして拓馬が朋ちゃんと結婚して、この店の厨房に立っているんだ?」と秀幸は2人に質問をすると同時に、何を思ったのか、辰次郎の飲みかけのハイボールを一気飲みしてしまった。

 

 拓馬は無言で秀幸の肩を軽くポンポンと叩いた後にカウンターから椅子を持ち、秀幸達がいるテーブルの横に腰かけて語り始めた。

 

 「俺は陸上が盛んな実業団にスカウトされた。平成4年のバルセロナオリンピックの10,000メートルに出場することを目標に、日々血のにじむような練習の日々を送っていた。しかし、日本代表の最終選考時にライバル選手に敗れてしまった。

 次の平成8年のアトランタオリンピックを目指したが、歳を重ねるたびに体力と気力が落ちてくる。結局アトランタオリンピックへの出場は諦めてしまい、それと同時に現役を引退したんだ。幸いその会社の営業部に配属になったんだが、知ってのとおり愛想のない男だろ、取引先にペコペコ頭を下げるのが嫌でそれが原因でトラブルを起こし、責任を取って平成12年にこの会社も辞めてしまった。

 日本がいるのが嫌になって同年に単身ニューヨークに渡ったんだ。しばらくはニューヨークを拠点にバックパッカーとして色んな所を旅した。例えば、マサチューセッツ州の港町グロススタに行った時は、日本人相手のマグロ釣り漁船のアシストをしたりした。

 金がなくなるとニューヨークに戻って来て中国人が経営する中華料理店で皿洗いのアルバイトをして食い扶持をつないでいたが、平成13年にいわゆる『9.11』と言われているアメリカ同時多発テロ事件が起こった。ハイジャックされた2機の飛行機がワールドトレードセンター・ツインタワーの北棟と南棟にそれぞれに突っ込んで、両棟が崩れ落ちていく姿を見て、「こりゃ、大規模な戦争が起きる」と思い、日本に帰って来た。

 成田空港に着いて、スイセイのチャーハンが無性に喰いたくなって、その足でここに来た。そうしたらマスターから自分はガンで余命いくばくもないと告白されて、「じゃあ、俺がこの店を継ぐよ…」なんて冗談で言ったんだが、マスターが本気になって、「1人娘の朋子と結婚してくれたら、この店を拓馬に継がせてやる…」なんて言われて、俺は学生時代から朋子のこと好きだったから「朋子さんと結婚しますからこの店を継がせてください!」と思わず宣言したよ。

 それからは料理の専門学校の通いながら、数年間はマスターの元で修行させてもらった。ようやく料理人として一人前になって、朋子とも結婚した矢先にマスターは安心したのか、間もなくして容態が悪化して数年前に亡くなってしまった。」と拓馬が語った。

 

 「そうだったのか…」と秀幸はため息をついた。大学を卒業して30年、この間彼らは色んな人生を歩んでいた。しかし自分はというと、昭和64年の帝都大学駅伝部の初の総合優勝を逃したのは自分に責任があると勝手に思い込み、それを理由にこれまで駅伝関係者との関係を拒んでいた自分は、まるで30年前から時計の針が止まっているような感じがした。

 

 拓馬は椅子から立ち上がり、落ち込んだ様子の秀幸の肩を大きな手のひらでやさしく摩りながら、「秀、実は俺にも届いているぜ…」と言った。

 拓馬は続けざまに、サンダルを脱いで椅子に立ち上がって、店の上部に飾られていた神棚にポンポンと柏手を打ってから、そこにあった白い封筒を取り出した。

 

 同じ白い封筒がテーブルに4つ並らんだ。開封されていないのは秀幸宛の封筒だけだった。

 

 「中身はなんて書いてあるんだ?」と秀幸は目頭を指で押さえながらみんなに聞いた。

 

 「そんなことは自分で確かめろ!」と辰次郎と伸一、そして拓馬から同時に言われた。

 

 「中身を見ていないのは秀、お前だけだと思うよ…」と辰次郎が皮肉交じりに言ったので、秀幸が自分の指を封の間に入れて、無理に開封しようとしたので辰次郎が、

 

 「おい!そんな乱暴な開け方したらダメ!ダメ!この手紙には夏雄の熱い気持ちがこもっているんだから…。うちに帰ってからはさみとかで丁寧に開けなさい!」とまるで親が子供を諭すように言った。

 

 「さあ、もうとっくにこの店の看板時間を過ぎているよ。本日はこれにてお開き!朋ちゃん、お会計して!」と辰次郎が言いながら飲みかけのハイボールを飲もうとグラスを持つと空だったので、「あれ?誰か俺のハイボール飲んだ?」とつぶやいた。

 

 会計を済まし、秀幸、辰次郎、伸一の3人は拓馬と朋子、そして女将にお礼と別れを告げ、各自は家路の途についた。

 

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 秀幸の帰宅時間が遅いことを心配していた櫻子が寝ずに秀幸の帰りを待っていた。

 

 「ただいま…。遅くなってごめん…」秀幸が玄関を開けながら櫻子に言った。

 

 「お帰りなさい。ずいぶん遅かったわね…。たっちゃんと話が盛り上がった?…。あら?少し酔ってる?。お酒飲んだの?」

 

 「やむなく飲んでしまったよ。もう今夜は飲まなきゃやってられない状況だったからね…」とスイセイで起こったことをすべて櫻子に話した。

 

 「へ…。みんなこの平成の30年間で壮絶な人生を送っているのね…。でも出来過ぎたサクセスストーリーね…?」

 

 「だろう?俺もなんかド素人が作家を気取って書いた三流小説を読んでいるような彼らの身の上話を聞いていて、そう思ったよ…。あるいは夢を見ているんじゃないかと何度も自分の手をつねったよ。ああ…今でもめまいと頭痛がする…」

 

 「でも4人がスイセイで劇的な再会を遂げるなんて演出は、たっちゃんの演劇好きが講じたのかしらね?」

 

 「あいつなら、やりかねない…。無類の芝居好きだったからね…。でもある意味、辰のおかげで、当時の駅伝メンバーと今夜会えて良かったよ。長年の胸のつかえが少しは下りたような気がする。」

 

 「それは本当に良かったわね…。持つべきものは友ね…。ところで、今日話題となった堀越君からのあなた宛ての封筒は開封したの?」

 

 「まだ…」

 

 「まだ?…。あらいやだわ…まだ開けてないの?」

 

 「今日はもう心身共に疲れ果てたよ。飲めない酒を飲んだせいで、もう眠くて仕方ない。今日は読む気に全くなれない。風呂に入って寝るよ。明日開封する…」とその晩の秀幸はよほど疲れたと見え、布団に入りすぐに寝息を立てて寝込んでしまった。