Sanpouji Storyteller

交錯する都会の中で織りなす5人の男女の物語

眼鏡とベストとギンガムチェック(20)-霞の章Ⅴ【終】

f:id:sanpouji:20190104151010j:plain

第20章


次の予定がどうのこうのと、ごにょごにょと呟いて新島が退散するのを笑って見送り、
SP藤木のテーブルに紙幣を置き、そのコスプレを褒め讃えて武は店を出た。
そして、美佐に電話をしようとスマートフォンを取り出すと、美佐からメールが入っていた。


   武、なにはともあれ(笑) 今夜ご飯食べない?
   この前ひろってくれた交差点にフレンチのお店があったじゃない、
   行ってみようよ。
   大丈夫、わたしは、元気です。

もう、19時半をまわっている。返信する時間ももどかしく、武は走り出した。

 

 

f:id:sanpouji:20190513162940j:plain


石を飲んだように胃が固い。ダメ元で来た私がバカだった。
賑やかなレストランの中で、美佐だけがひとりだった。
武のことを考えていたはずが、いつしか美佐は、父親の姿を思い出そうとしてた。
眉が太かった。タレ目だった。掌が大きかった。
祖父から継いだ理髪店で働いていて、膝に乗ると、いつもシャンプーのいい匂いがした。
あの時の額はどれくらいだったんだろう。
理髪店は、今は他人名義のコンビニエンスストアになっている。
もしも誰かが助けてくれたら、お父さんは返せていたのかな。
誰もが言った。「自業自得だ。保証人?甘かったな」…
助けてほしかった。
助けてくれたら、お父さんは絶対ちゃんと返せたのにって思ってきた。
なんの根拠もなく。
お父さんだから、というだけで。


隣のテーブルの少女の声で、美佐は我に返った。

「ねえねえお父さん、お母さんたらねえ、今日ねえ」
「やめてよお。内緒って言ったでしょ」
やや大仰な、ピンクベージュのワンピースを着た母親が、ヒラヒラと手を振って遮る。
「あのねえ、洋服決めるのにねえ、5回も着替えたんだよ」
父親の笑い声と、母親の小さな抗議が重なる。

 

だめだ。これ以上考えていたら、怖い記憶も蘇ってしまう。
男たちの怒声や、連打されるチャイムの音や…
美佐は手を上げて、メートルに合図した。


「すみません。あの、私が約束の日にちを間違えたのかもしれなくて」
「それは残念でしたね。お食事は次回になさいますか?」

水しか乗っていない美佐のテーブルの他は満席だった。
それに気付いて、胃の石がまた大きくなる。

「いいえ。グラスでいただける赤ワインと、何か軽い前菜だけ」
「かしこまりました」
「ごめんなさい」

メートルはメニューを下げ、行きかけて戻った。

「もしよろしかったら」と小声で言う。
ホットワインとカスレはいかがでしょう。
カスレはフランスの田舎料理で、豆をベーコンとトマトで柔らかく煮込んだ、
温かい料理です。小さめのボウルでもご用意できますが」

この人は、わたしの胃の石のことを知っているらしい。
不意打ちの優しさに、一瞬、泣き出しそうになる。

「ありがとうございます。それが良さそうです」

メートルは更に声を低くした。

「どちらも裏メニューです。だけど、美味いです。次回は無いかもしれませんよ」

茶目っ気を含んだ口調で言われ、美佐はやっと微笑むことができた。
その時だった。
肩で息をしながら武が店に飛び込んで来た。
メートルが笑いながら、メニューをテーブルに戻す。世界が一変した。

 

f:id:sanpouji:20190513164654j:plain


「おお、新札だ。帯が付いてるとサスペンスドラマみたいだね」
「これ、利子なんかつけてないぞ。言っとくけど」
「えええー?つけないんだ」美佐は大袈裟に頭を抱えた。「貸すんじゃなかった」
2人は声を合わせて笑った。

「じゃあさ、利子代わりにさ、すんばらしく美味しいスウィーツがあるんだって。今度買って来て」
「おう!買ってやろう。すんばらしいスイーツを」
「ホレンディッシェ・カカオシュトゥーベのバームクーヘン!」
「ああ、それはダメだ。覚えられない」

笑うたびに胃の石が溶けていく。
もう、大丈夫。なにもかも。


「美佐、ありがとう。今日は全部、説明するよ」
「長い話?」
「長ーい、笑い話だよ」
「じゃあ、フルコースかな」
「豪勢だねえ」
「200万円持ってるし」
「しまっとけ。100万円なら持ってるし」
「100万円?」
「だから、長い話なんだってば」

武がメートルを呼び、3人はじっくりと時間をかけて、料理を選んだ。


「ちなみにさ、何で200万だったの?」
ワインのテイスティングをすませた武が聞く。
「うーん、まあ、ありったけ、ってことだったかも」
「危なっかしいなあ。ダメだよ。そういう、何ていうか、捨て身っぽいのは」
「そうだよね。だけど、どうしても私は、どうしても、」

美佐は、透明な白ワインの、グラスの輝きに視線を定めた。
声が割れないように。

「どうしても、私は、こういう結末を見てみたかったんだ」
「こういう?」

 
言いかけた美佐を遮るように、突然ピアノのバースデーソングが流れ始めた。
一つひとつ照明が落とされ、可愛いギャルソンヌが、キャンドルを灯したケーキを捧げ持って現れた。
それを、隣のテーブルの、ピンクベージュのワンピースの母親の前に置く。
真っ先に、美佐が手を叩き始めた。
それに先導されたように、ほかの客たちが大きな拍手をおくる。

武が声をあげた。「おめでとうございます!」
感激で声を詰まらせている母親を見て、少女の方が立ち上がって客たちに向き直った。

「どうもありがとう!」

父親が笑ってたしなめる。「ございます、だろ?」
温かな笑いが広がる中で、美佐が吹き出した。


「さっき、ありがとうで終わる結末、って言おうとしてたのよ」

 

f:id:sanpouji:20190513164151j:plain

 

武、元気か?
怒っているんだろうなあ。武のふくれっ面がしょっちゅう夢に出るよ。
俺はいま、外国にいる。どこだと思う?
ぜったい当てられない、小さな途上国だ。
人間は、骨も筋肉も世界共通だから、俺がやるべきことは多い。
お前のおじいちゃんは、鼻で笑って反対したけど、
堂々と報告できるくらいの結果がでてきた。

とはいえ、3年もかかるとは。半年くらいで目処が立つと思っていたよ。
親たちのことは、時々友達とか知り合いに偵察させて無事はわかっているが、
武は元気か?

ブログ、ネット環境のある場所に移動する度に見ていたんだけど、
この頃ずっと更新されてないから心配になってきた。

武、元気か?元気でいてくれ。

罵詈雑言でいい。返信を待っている。   仁

 

                            <完>

眼鏡とベストとギンガムチェック(19)-嵐の章Ⅲ

f:id:sanpouji:20190104150655j:plain

 

第19章


城二と銀が成田に着いた時一報が飛び込んで来た。
なんと専務の中村によるクーデターである。
中村は数年前、大手商社佐藤忠商事からヘッドハンティングで我社に入社した人物である。
その中村のバックには投資ファンドが付いておりそのファンド自体、中村が以前勤めていた佐藤忠商事と繋がりがある。
ひいては中村自体佐藤忠商事から送りこまれた刺客であった。
中村はファンドを使いすでに、当社の株35%を取得していた。
ファンドの通称は薊ファンド、最近中華系や中東系企業を傘下に収め勢いにのってるファンドでファンドの中枢メンバーの薊は、元経済産業省役人で専務の中村とは入魂の中であった。

最近、株価が上がっていたのは気付いていたが、それは社長が進めてきた新プレジェクトが功を奏してきた物と思っていたが・・・・・・。
現在、社長の一族で発行済株数の40%を保有し佐藤忠プラス投資ファンドが35%を保有、残り25%を一般投資家が保有している。
この25%内の数%を恥ずかしながら城二は所有していた。
佐藤忠商事は、業を煮やしTOBを仕掛けてきたのである。

その時、銀がボソッと「ついに、本性を現したな」とつぶやいた。
おい銀、どう言う事だと尋ねると、銀はこう切り出した。
自分、実は創業家の一族で、会長が爺さんで、社長が親父の兄貴つまり伯父である。親父は銀が中学生の時分に過労が原因で亡くなり、それが要因となり、ある意味チャランポランで風来坊のような生活を続けていたと言う。

そんな折、爺さんから一通のエアメールを受け取った。
そこには、現在の会社の状態、置かれている立場が事細かく書かれていた。
手紙によると数ヶ月前に、大手商社佐藤忠から業務提携の話があり交渉が始まったと言う。
会長にとってこの提携は、吸収以外の何物にも思えなかったと言う
そう、体のいい乗っ取りと言って良いものらしい。
そして今考えると、中村専務が我が社「当月堂」に入った経緯にも不穏な影がちらついていた等々の話がつづられていた。
そして最後に、救世主になって欲しいと締めくくられていた。

そう言い終わると銀は、俺の手を握り「城二!自分に力を貸してくれ!!」
銀の真剣な眼と気迫のこもった言葉に黙ってうなずいた。
そうと決まれば先ずは作戦会議である・・・・

と言う事で先ずは、東京にある我が家に二人は向かった。
元々城二は当月堂東京支店勤務であったが、大阪本社である程度の事務レベルを持ち営業レベルが一定以上備わっている人材が欲しいとの要望があり城二に白羽の矢が立ったと言うわけである。

 

f:id:sanpouji:20190510094403j:plain



城二は、東京世田谷に2DKのマンションを所有しているが、今現在空き家になっており月一回程度東京に帰り、風入れ等を行う生活が4年半続いていた。
「城二まずは腹ごしらえをしながら作戦考えようぜ!!」
と言い終わるか終わらないかのタイミングで「そんじゃ出発だ」と城二が立ち上がり部屋を出て駐車場へ向かった

そこには我が愛車チリレッドのMINIが静かに鎮座していた。
二人は、車に乗り込み明治通りを走行「なあ、城二何処行くんだ」と銀が尋ねると、「こないださーこっちの友達から店紹介されて、其処行こうと思うんだ」そう答えると銀は、「じゃあとか、さーとか東京人ぽい言葉が出て来たな、でもジャンは使うなよ関西人は嫌うから」そう言いながら大声を出して笑った。
二人が向かったのは明治通り沿いにある「メール・ドゥ・ノルド」と言う蔦の絡まった外観のしゃれたフランス料理店である。
店に入ると東洋人らしい人に案内され席についた。
「結構、流行ってんな」そう言いながら二人は席に着くと、早速作戦会議を開いた。
まず何をすべきか?
その為には、何をすべきかである。
何をすべきか当然、中村ひいては佐藤忠のTOBを失敗させること。
その為には、25%の一般投資家に佐藤忠より魅力的な提案をしなければならない。
彼方の手札は、くしくも社長が進めていた新プロジェクトであった。
と言うのも、プロジェクトメンバーほぼ全員専務の中村が選定をしたとの事、当然子飼いの社員が当てられ、自分が持っている財産(人間関係)をフルに活用させ新たな商品を販売させていった。
その中で城二がメンバーに選ばれたのは、銀が社長に進言し実現させたものであった。
銀には城二が必ず銀を誘ってくると言う、確信めいた何かを感じたらしいのである。
そのある意味直感を信じての抜擢であったと後に聞かされた時は、かなり落ち込んだものである。
さて此方の手札は、銀のつてで契約に至った、素材が有るのみであるのだが、この素材は一級品である。
これをどの様に扱うかだが、ただ素材の販売では意味がない。
そこで、この素材を何に化けさせるか?
どう戦略を立て、売上を上げて行くかだが城二にはある考えがあったのである。
この羽毛の様に軽く、チタンの様に頑丈な素材で眼鏡のフレームを作ろうと考えていたのである。
と言うのも日本人は鼻が低い為、直ぐ眼鏡が落ちてしまい眼鏡を上げる動作をよく見かけるからである。
また、現在の多くの眼鏡は、鼻と耳で支えているが、長時間使用すると耳の付け根が痛くなり非常に不愉快であることが伺える。
この技術を応用すれば、スポーツグラスにも応用出来ると確信していた。
方向性は決まった、後はどう形にするかである。

 

そんな話をしていると、隣の席で会話を弾ませていた2人の女子が声をかけて来た。
「あの~話に割って入って申し訳ないのですが、御二人の話に大変興味がありまして~」と切り出してきた。
産業スパイか?・・・・
それとも中村の手先か?
そんな事が頭を過ぎった瞬間「実は、私たち帝都大の研究員で、先ほど御二人が話していたSPECTACLE(眼鏡)の研究をしてまして、デザインは基より人間工学に基づいた機能性を研究しています」と言うではないか。
正に渡りに船である、ランチもそこそこに二人を伴い我が愛車MINIに乗り込んで、帝都大へ向かった。

 

 

 

f:id:sanpouji:20190510093723j:plain

途中首都高一号線汐留の合流で青のプジョー白のコルベットC3とすれ違い自分のチリレッドのF56と合わせて、まるでフランス国旗だな~などと思っていた。
大学に着くと早速彼女達の案内で、教授の新戸比沙子を紹介されて打合せに入った。

新戸が「研究生より大まかな話は聞きましたが」と切出したかと思うと銀が「早速ですが、この特殊な金属の特性を説明いたします」と何の疑いも無く話を進めだしたので慌てて話しに割込み静止させた。


「おい銀、そんなに彼女達を信用して良いのか?」とふると「問題は、無いよ」と帰ってきた。「如何してそういい切れる」また切返すと「おそらく此れから話す内容の10%も彼女達は理解出来ないよ」と笑いながら言い放った。
確かに銀が話した内容は、専門過ぎてその分野に精通した人で無いと、いや精通した人でも理解するには困難を極めるとおもった。
大事なのは、新戸教授がどんなデザインを考案し、加工できる工場を見つけられるかである。

今度は、教授がデザインをキャドで披露しようとした瞬間「ちょっと待って」と研究員が静止した。
「本当に彼らで良いのですか?」その問いに教授が「彼らは、包み隠さず話をしてくれているし何よりも、その特殊金属を売り出したいと考えている、そして眼鏡にちゅうもくした」「此方は、この画期的なデザインの眼鏡を発表したいと考えている」こう話し出し「後は、女の感よ」と研究員をいなした。

御互いの利害が一致すれば後は走るだけである。
新戸教授の考案したデザインを、実現してくれる加工場探しであるが、かなり難航すると考えていたのだが、以外にも簡単に解決した。
と言うのも、アメリカに居るタクミからの一本の電話で、状況が好転したからである。
タクミいわく、例の特殊金属Xの加工試作機が完成し実験結果は、大成功との太鼓判をおされた。
ついては、早速商品開発のプロジェクトを立ち上げたいので、至急会いたいとの内容であった。

城二と銀は顔を見合わせ大きくうなずいた。

 


Toto - Child's Anthem Live @Yokohama 99

// ]]>

眼鏡とベストとギンガムチェック(18)-羽の章Ⅳ【終】

f:id:sanpouji:20190104150655j:plain

 

 

 秀幸にとって昨夜の「スイセイ」での出来事は、帝都大学駅伝部の同期メンバーの辰次郎、伸一、拓馬との劇的な再会に驚愕させられ、彼らの平成の30年間の生き様を知り、さらに失くしたと思っていた夏雄からの白い封筒が手元に戻って安心したのも束の間、4人が同じ白い封筒を持っていたことに再び驚かされた。

 こうして様々な感情が数時間のうちに体感し、秀幸は激しいめまいと頭痛に悩まされた。また飲めない酒を飲んだことも加勢して、心身ともに疲れ果てたようで、いつになくぐっすりと眠ることができた。

 平成31年2月の最後の日曜の朝、秀幸は深い眠りから目が覚めた。

 

 「おはよう…昨夜はゆっくり眠れたようね…」と妻の櫻子が目をこすりながら冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水をコップに入れている秀幸に声をかけた。

 

 「いつもの悪夢は一切見なかった。久しぶりによく寝た感があるよ…」と秀幸は水を飲み干した。

 

 朝食を済ませ、秀幸夫婦はお互いに他愛もない会話と薄めのコーヒーを飲みながらくつろいでいた。

 

 「堀越君からの封筒、開けないの?」と櫻子が突然言い出した。

 

 「んん…、開けてみるか…」と秀幸は渋々と引き出しからペーパーナイフを取り出し、夏雄からの白い封筒の封をゆっくりと丁寧に切り始めた。

 

 中から上質な紙にワープロの文字で書かれた便箋が3つ折りにされて入っていた。秀幸はテーブルの上で折り目を伸ばして広げた。櫻子が自分も内容を知りたいと言うので、秀幸は声を出して読み始めた。

 

 

++++++++++++++++++

 平成31年1月吉日

 

 第65回(昭和64年)東京箱根間往復大学駅伝競走

 帝都大学駅伝部関係各位

 

 明けましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い致します。

 本年の正月に開催されました第95回箱根駅伝大会では、我が校 帝都大学駅伝部は初の総合優勝を成し遂げました。これは関係各位のご声援の賜物と駅伝部監督として深く感謝申し上げます。

 今後とも駅伝部はさらなる向上心と練習に励み、様々な大会にて皆様方のご期待に添えるような結果を出していきたいと思っております。引き続きのご声援とご協力をひとえにお願い申し上げます。

 さて、本書状にて皆様方にお伝えしたいもう1つのメッセージがあります。

    30年前、私は本校駅伝部の現役選手でした。当時の部員は箱根駅伝大会への出場を目標に血のにじむような練習を重ね、ついに予選会で念願の箱根駅伝大会の出場権を獲得し、昭和64年開催の第65回箱根駅伝大会への初出場を果たしました。

 しかし、思わぬアクシデントにより、初出場、初の総合優勝は叶わず、昭和の終わりとともに、我々4年生の大学駅伝選手生命も終わりを迎えました。

 と当時に平成の御代が始まり、あれから早いもので30年の年月が経ち、今やその平成も今年の4月30日で終わります。

 当時の4年生は平成元年3月に大学を卒業し、この平成の30年間、様々な人生を送ってきました。またそれは決して平たんなものではなかったことでしょう。自分の過去の悔いや悲しみを今でも一人で背負って、生き抜いている人もいるかと思います。

 そこで、平成が終わるこの節目に、昭和最後の大会となった第65回箱根駅伝大会に出場した駅伝メンバーやその関係者が苦楽を共にした我が校の総合運動場に30年ぶりに集結して、再会を喜び、近況を語ったたり、懐かしい昔話で盛り上がりたいと思います。

 また、同時に今年総合優勝を成し遂げた現役選手も同席しますので、皆様方で彼らの栄誉を称え、祝っていただければ幸いと思います。

 昭和最後の駅伝メンバーと平成最後の駅伝メンバーが一堂に集まり、新しい御代の幕開けを迎えたいと思います。

 ふるってご参加いただくことを切にお祈り申し上げます。

 皆様方と当日会えることを心から楽しみにしております。

 なお、誠に勝手ながら準備の都合上、出欠席のご返事は、3月20日までに同封のハガキにてご返信ください。

 

 開催日時:平成31年4月30日(火・休日)正午~

 集合場所:帝都大学 総合運動場 レストハウス【ビクトリア】

 

 帝都大学 駅伝部

 監督 堀越 夏雄

+++++++++++++++++++++++

 

 秀幸は読み終えた。夏雄からのこの手紙は、自分達が出場した第65回箱根駅伝大会時の駅伝メンバーとその関係者宛に送っている文面だが、秀幸には夏雄が自分のための励ましの会ではないかと感じた。平成の終わりを機に、「これまでの悲しみや背負ってきた重い荷物をこの会で降ろそうよ…」と優しく呼び掛けているような気がした。

 

 もしや、昨夜のスイセイでの出来事は、このイベントの伏線ではないか?…。だとするとこれは夏雄だけではなく、辰次郎、伸一、拓馬もグルになって、自分を快く出席させるための企みではないのか…?とも感じてきた。

 もしそうであるならば、「なんて粋な計らいではないか…。なんと素晴らしい友情愛ではないか…」と秀幸は目頭が熱くなってきた。

 その気持ちを素直に櫻子に話してみると…、

 

 「私も最初にこれを読んだ時にそう思ったわ…。ましてや、昨日のスイセイの話を聞いて確信したわ。昨日の4人の再会は劇的過ぎるもの…。きっと、堀越君がたっちゃんに「どうすれば、秀が快く出席できるだろうか?」と相談したのよ。それが昨日の出来事になったのよ。たっちゃんの凝りに凝った演出ね…。でもこの30年間、堀越君をはじめ、みんながあなたの事を心配していたのよ…。そしてあなたに会いたかったのよ…」と櫻子は語った。

 

 「やっぱりな…。これは夏雄や辰達の優しさだ…。あいつららしいなあ…。でも夏雄の言う通り、平成の問題は平成の内に片付けてしまい、新しい時代を迎えたいよな。俺、この会に参加するよ…」と秀幸は決心をした。

 

 「ヒュー、ヒュー、熱いぞ、男の友情!…」と冷やかしながらも、櫻子は心の中で秀幸が参加を決意してくれたことに安堵した。

 

 「ん?ちょっと待って、今君「最初に読んだ時…」って言わなかった?何「最初」って?」と秀幸は急に我に返って櫻子に訊いた。

 

 「実は私にも堀越君から同じ手紙が届いているのよ…。その時に読んだのが最初で、今日あなたが読んで聞かせてくれたので2回目ってこと…」

 

 「ええ…君にも届いていたの?なんでもっと早く言わないの?!」と秀幸はあきれ顔で言った。

 

 「私だって関係者の一人よ…。当時の帝都大学駅伝部の女子マネージャーだもん…。でもあなた宛てのものと、私宛てのものの内容が同じかどうかも分からないし、そもそも、あなたがこの封筒をどこかに落とすなんて想定外だったわよ…。「失くした」って聞いた時にはびっくりしたわ。「私も堀越君から手紙が届いているの…」ってあなたに言うタイミングを完全に逸してしまったわよ…」とやや逆ギレ気味の櫻子に起伏が激しい女性だな…と秀幸は思った。

 

 「まさか、君までグルでは?…」と秀幸は櫻子の顔を覗き込むように聞いた。

 

 「……、さあ、お洗濯、お洗濯と…。洗濯するものがあったら洗濯機に入れておいてね…」と答えをはぐらして、その場を離れて行った。

 

 「櫻子もこりゃグルだな…」と疑ったが、秀幸はこれ以上問い詰めることを辞めた。これも櫻子の優しさかもしれないと感じたからだ。

 

 「4月30日は私も一緒に行くからね…。久しぶりにみんなに会いたいもん…」と姿は見えないものの、遠くから聞こえる櫻子の無邪気な声がどことなく可愛らしく、憎めなかった。

 

 秀幸は夏雄からの手紙をまた元の通り丁寧に3つ折りにして封筒にしまった。

 そんな時に秀幸のスマホに辰次郎から駅伝メンバー全員宛のメールが一斉送信されて来た。

 

 『30年前に箱根駅伝出場祝いで伸一の親父さんからもらったベストを今でも持っている人は、4月30日のイベントの際に持参もしくは着用のこと! 辰次郎』とのメッセージだった。

 

f:id:sanpouji:20190425123737j:plain

 

 4月1日に政府から新元号「令和」が発表されてから1か月が経った平成31年4月30日の朝を迎えた。平成が今日で終わる日でもある。

 

 秀幸はここ数日間、今日のイベントのことと、いよいよ平成が終わるとマスコミ等が騒ぎ立てることもあり、何となく気持ちが落ち着かずにそわそわしていた。

 

 「あ…今日という日を迎えてしまった…。なんだか落ち着かないよ…」と秀幸が櫻子に言った。

 

 「大丈夫よ…。きっと、みんな、あなたを温かく迎え入れてくれるわよ…」と櫻子が言うと、今日着て行く洋服を探しに2階へと上がって行った。

 

 「あっ!」と2階のクローゼットから櫻子の叫び声が聞こえたので、慌てて秀幸は駆けつけると、

 

 「ねえ、これ見て!ベストのボタンがしまったわ!私、大学時代と体形が変わってないってことね…」と櫻子も辰次郎からの一斉メールを読んだようだ。自慢げにその姿を見せつけられた秀幸は「やれやれ…」とつぶやきながら1階に下りて行った。

 

 玄関を出ると初夏を感じるほどのさわやかな晴天の日だった。

 秀幸と櫻子は辰次郎から指示のあったベストを着て、一緒に母校の総合運動場へ向かった。

 最寄りの駅で降りて、拓馬・朋子夫婦が営んでいる『スイセイ』の前を通りかかると、入口には【都合により本日臨時休業】と紙が貼られていた。夜の宴会はこの店でやることになっていた。

 

 2人は総合運動場の正門に着いた。秀幸にとっては30年ぶりの総合運動場だった。運動が盛んな帝都大学は、あらゆる運動施設がここ総合運動場に完備されていた。

 正門を抜けると、直進100メートルの通路沿いに等間隔に植えてあるソメイヨシノの並木道がある。すでに花は散っていたが、青々とした新緑の葉が春の日差しによって照り付けられていた。

 

 桜並木を通り過ぎると正面に陸上競技場が見えてきた。公式競技ができるほどの立派な施設であった。

 

 「ほら見て!陸上競技場よ…。懐かしいわね…。なんか私達の『ザ・青春!』って場所よね…」と櫻子がしみじみと言った。

 

 秀幸も自分たち駅伝メンバーが箱根駅伝大会への本選出場、さらには総合優勝を目指して、死に物狂いで練習した陸上競技場を目の前に懐かしさを感じていた。

 陸上競技場を過ぎで、左右に様々なスポーツ施設を見ながら通り過ぎると、小高い丘の上に選手ならびに関係者専用のレストランと宿泊施設を兼ねたレストハウス【ビクトリア】が見えてきた。

 

 「さあ、急ぎましょう!」と櫻子が秀幸の手を引っ張りながら小走りに走った。

 

f:id:sanpouji:20190425123905j:plain

 

 2人はレストハウス【ビクトリア】の1階入口に到着した。入口には夏雄がおそろいのベストを着て参加者を出迎えていた。秀幸夫婦を見つけると夏雄の方から歩み寄って来て、

 

 「秀…久しぶりだな…。今日はよく来てくれた。感謝するよ。」と夏雄と秀幸はがっつり握手をした。

 

 「こちらこそ、今日はご招待に預かり感激だが、俺みたいな者がここへ来ていいのか迷ったよ…」と戸惑いながらの秀幸に、

 

 「何を言う!秀の元気な姿を30年ぶりに見られて、俺は率直にうれしいよ…。さくちゃんも久しぶりだね…。元気そうで何よりだ。」と夏雄は満面の笑みを浮かべた。

 

 「堀越君は年をとってもイケメンね…」と普段、秀幸には見せない愛らしい眼で櫻子は夏雄を見つめていた。

 

 「そこに受付があるから、記帳してから中に入って…。もう同期の何人かが中にいるから…」と夏雄が受付の方を指さして2人を誘導した。

 

 受付で記帳と会費を支払うと、駅伝部の現役女子マネージャー達が秀幸夫婦に黄色のリボンを胸に付けてくれた。2人は食堂の中へと入って行った。

 

 高い吹き抜けの天井がより食堂の全体の広さを強調する構造は昔と変わっていなかった。1階は500席もある食堂になっている。大きな全面張りのガラスからは、眼下に陸上競技場の全貌を眺めることができ、まぶしい太陽の日差しが食堂内に降り注いでいた。

 

 「お…秀、こっち、こっち…」と伸一が呼ぶ声が聞こえた。

 

 秀幸夫婦は手招きする伸一を見つけ、そちらのテーブルへと足を進めた。テーブルにはすでに伸一と拓馬、そして拓馬の妻、朋子が座っていた。

 

 「伸一と拓馬、そして朋ちゃんは2月末のスイセイでの再会以来だな…」と秀幸は笑顔で言った。

 

 「あ…櫻子、久しぶり!」、「あ…朋子…」と2人は周りをはばからずハグをし合った。朋子は櫻子の同期で、共に駅伝部女子マネージャーでもあり、学生時代は『乗り鉄女子』仲間だった。

 

 「ね…櫻子見てよ…。私、30年前のベストが今でも着れるのよ…」と朋子が自慢げに櫻子に見せつけるので、

 

 「私だって…」と櫻子が着ていたジャケットをばっと脱いで、2人は周りの男どもに見せつけた。

 

 「朝からこれなんだよ…」と拓馬が秀幸の耳元で小さな声で言うと、

 

 「うちもだよ…」と秀幸も小声で返した。

 

 「秀幸夫婦も拓馬夫婦もうちの親父が誤発注したベストを着て参加してくれたんだね…」と伸一が嬉しそうに言った。

 

 「辰からの指令じゃあ、しょうがないだろうよ…」と拓馬が言った。

 

 「そう言えば、辰の姿が見えないけど…」と秀幸は周りを見回した。

 

 「辰は今日は総合プロデューサー 兼 司会だそうだ。早くに来て夏雄と打合せをしていたな…。たぶん裏方で忙しいと思うよ…」と伸一が説明してくれた。

 

 会場の準備が整い、招待客はほぼ全員揃った。秀幸は他の駅伝メンバーとも久しぶりの再会を喜び合っていた。

 

 「大変お待たせ致しました。定刻となりましたので、会を挙行します!」と辰次郎が司会席から高らに開会宣言をした。

 

 「おい!司会者!ベストのボタンを閉めろ!」と拓馬が辰次郎に大きな声で野次を入れた。

 

 「そこの中華料理屋のおっさん!黙ってろ!しょうがないでしょ…!メダボでベストのボタンが閉まらないんだからさあ…」と辰次郎が拓馬に言うと、会場からどっと笑いが起きた。そのせいで会場内の緊張感がほどけた。

 

 「さて、冗談はさておき、今日の会の趣旨を簡単に説明します。堀越監督からの手紙にも書いてありましたように、今日は2つの意味がある会です。

 1つは平成最後となった今年の第95回箱根駅伝大会で見事、我が帝都大学駅伝部、ここでは『平成組』と称します。胸に赤いリボンをしているのが平成組ですが、この平成組が今大会で初の総合優勝を成し遂げたお祝いと、2つ目は昭和最後となった昭和64年の第65回箱根駅伝大会に出場したランナーならびに関係者、ここでは『昭和組』と称します。胸に黄色いリボンをしているのが昭和組ですが、この昭和組は30年ぶりの再会を喜び、またこれまでの30年間の人生を振り返り、両方の組が新元号時代にもさらなる健勝と活躍、ご多幸を祈る会です。

 どうぞ、時間の許す限りお楽しみいただければ幸いです。あっ!申し遅れましたが私、昭和組で復路第9区を走りました波野 辰次郎と申します。本日の総合プロデューサーと司会を兼務いたします。どうぞよろしくお願い致します。」と挨拶をすると拍手が起こった。

 

 「では、本日の主催者であり、我が帝都大学駅伝部の現監督であります堀越 夏雄より皆様にご挨拶申し上げます。堀越監督、ご登壇ください。」舞台袖で控えていた夏雄がつかつかと歩き出し、中央に置いてあるスタンドマイクの前に立った。

 

 「帝都大学駅伝部の監督を仰せつかっております堀越です。本日はお忙しい中をかくも大勢の方にお集まりいただき、感謝申し上げます。只今司会者の辰、この場で辰呼ばわりはまずいな…波野君が私の言いたいことの90%を言ってしまったので、何を話そうか困っております。昭和組、平成組とは年齢差が30近くありますが、同じ大学の駅伝部員同士です。平成最後の日を楽しいひと時でお過ごしいただければ幸いです。」と夏雄が言うと再び拍手が起こった。

 

 「続きまして、乾杯をしたいと思います。乾杯の音頭を昭和組の当時の駅伝部監督で、しごきの鬼監督こと藤間監督にお願いしたいと思います。では藤間監督、どうぞご登壇ください。」80歳になる藤間は杖を突きながら、ステージにゆっくりと上がって来た。

 

 「堀越君、今日はお招きありがとう!そして平成組の皆さん、総合優勝おめでとうございます!テレビを見ながら応援していたよ。自分の事のように嬉しかった。堀越、君は大手一流商社を辞め、帝都大学駅伝部の監督に就任して、よく短期間でここまで選手を育て上げた。君は選手としても、監督しとても立派だ!素晴らしい!」と言うと、藤間は辰次郎の方を向いて、

 

 「おい、波野!お前は相変わらずだな…」とがっかりした表情をすると、場内が笑いの渦となった。

 

 「そして、昭和組の諸君!元気な姿で会えて嬉しいよ。今なら間違えなく社会問題になるであろう俺の地獄の特訓によく耐えた。結果は残念だったが予選から勝ち上がって本選大会に出場できてよかった。嬉しく、そして誇りに思うよ…。

 特に寺嶋、ゴール直前で倒れた時はびっくりした。ずっと君を心配していたぞ。でも櫻子が君の奥さんになって、節目節目に寺嶋の状況を手紙で知らせてくれた。寺嶋が少しずつ快復しているとの連絡に安心していた。

 今日は勇気を出してよく参加してくれた。ありがとう、秀。そして櫻子、よく寺嶋の面倒を見たな…。内助の功だぞ…」と藤間が涙ぐんで言葉を詰まらせた。秀幸夫婦はその場で立ち上がり、ステージの藤間に照れくさそうに深く頭を下げた。

 

 「さあ、気を取り直して景気良く、乾杯をしよう!準備はできたか?全員起立!それでは見事、今年の箱根駅伝大会で総合優勝を果たした平成組と、昭和組の久しぶりの再会と、そして明日からの新しい御代を迎えることを祝し、盃を高らかに上げたいと思う。ご唱和願います。カンパ~イ!」の発声後に会場内全員からも「カンパ~イ!」との声が会場に響き渡り、会場は拍手喝采となった。

 

 「藤間監督、ありがとうございます。それでは、しばらくの間、歓談タイムとします。食事もドリンクもふんだんにありますので、どうぞ好きなだけお召し上がりください。」と辰次郎が言った。

 

f:id:sanpouji:20190425124127j:plain

 

 昭和組と平成組が交じり合って、会場内はにぎやかな雰囲気となった。ある程度の時間が経過すると辰次郎が司会席に再登場した。

 

 「それでは、ここで平成組と昭和組の各駅伝出場メンバーを紹介します。まずは平成組から参りましょう。紹介役は堀越監督からお願いします。」

 

 「はい。まず今年の第95回箱根駅伝大会で総合優勝を成し遂げた平成組を紹介します。」と夏雄が言うと、出場メンバー10人は優勝メダルを首に掛けてステージに上がって来た。夏雄が1区から10区までの出場メンバーを紹介した。

 

 「彼らが、私が現役時代に成し遂げられなかった夢を実現してくれた誇り高きメンバーです。どうぞ彼らを称えていただきたく思います。」と夏雄が言うと、「おめでとう!」との声と共に、割れんばかりの拍手が会場に響いた。

 

 司会の辰次郎は10人の選手にユーモアを交えた質問を投げかけると、困惑しながらも応答する選手達の姿を見て、会場内は笑いが絶えなかった。

 

 「平成組の皆さん、ありがとうございました。どうぞ自席にお戻りください。では、次に昭和組の出場メンバーを紹介します。紹介役は再び藤間監督にお願いします。」と辰次郎が言った。

 

 「よし!じゃあ、昭和64年の第65回箱根駅伝大会の出場メンバー達よ!1区から順に名前を呼ぶからステージに上がって来い!1区 守田 伸一、2区 片岡 義人、3区 長谷川 拓馬、4区 林 宏太郎、5区 堀越 夏雄、6区 坂東 輝彦、7区 小川 光晴、8区 中村 裕也、9区 波野 辰次郎、10区 寺嶋 秀幸、以上10名」と藤間が大きな声で呼びかけ、おそろいのベストを着た昭和組が順々にステージに上がった。

 

 「見ての通り、10区間10人の名前を呼びましたが、実際は9名しかステージに上がっておりません。上がっていないのは8区の中村 裕也です。この件は堀越、君から説明してもらおうか…」と藤間はマイクを夏雄に渡した。

 

 秀幸は同期の裕也の姿を見かけていなかったことを最初から気になっていた。

 

 「おい、辰…。裕也はどうしたんだ?」と隣に立っている辰次郎の耳元で聞いたが、辰次郎は、

 

 「今から夏雄が説明するからそれを聞け…」と辰次郎はいつになく神妙な顔をしていた。

 

 「はい。それでは私から説明します…」とマイクを受け取った夏雄はさっきまでの明るさが消え、一転緊張感が漂う顔つきに変わった。

 

 「幸二、例の物を持ってステージに上がって来てくれ…」と平成組のテーブルに座っていた幸二は秀幸達と同じベストを着て、ステージに上がって来た。それと同時に昭和組がステージを降りて自席に戻って行った。

 

 「彼は中村 幸二と言います。先ほど彼を今回の箱根駅伝大会に出場したメンバーとして紹介しましたが、実は彼の父親は我々と同期の昭和組で8区を走った中村 裕也なんです。」と夏雄は幸二の肩に手をまわした。

 

 会場からはどよめきが起こった。特に秀幸にとっては驚愕の思いがした。続けざまに夏雄は語った。

 

 「今日、裕也が現れない理由を今から申し上げます。

 私は平成元年3月に大学を卒業し、商社に就職しました。一方、裕也も同年に卒業して、もともと彼は大阪生まれの大阪育ちだったので、地元の大阪に就職しました。その後、同じ職場の女性と結婚をして、すぐにこの幸二が生まれました。幸二が生まれてからは、裕也家族は伊丹市に住居を構えました。

 私が平成12年4月に関西支店への転勤辞令があり、家族と共に大阪に引っ越して来て以来、私と裕也とは家族ぐるみの付き合いをするようになりました。

 しかし、突如として裕也家族に悲劇が起こりました。それは平成17年4月25日に起こったJR福知山線脱線事故です。

 午前9時過ぎの事、遅延していた電車はそれをカバーしようとスピードオーバーで走行し、カーブで曲がり切れずに先頭の1両目は線路脇のマンションの1階駐車場へ突入。2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに脱線逸脱してきた3 - 4両目に挟まれて圧壊。外壁にへばりつく様な状態で、1 - 2両目は原形をとどめない程に大破しました。

 裕也は朝の出勤のために伊丹駅からその電車の先頭車両に乗っていたため、ほぼ即死状態で発見されました。

 幸二は当時7歳…。突然の事故で父親を亡くして、途方に暮れていた母子を私は放っておけず、可能な限りバックアップしました。

 幸二は父親の裕也が箱根駅伝選手だったことを誇りに思っていて、大阪の公立高校の陸上部では長距離ランナーとして活躍し、その後は帝都大学にスポーツ推薦で入学し、父親と同じ駅伝部に入部しました。

 幸二が帝都大学に入学した後に、ひょんなきっかけで私に本校の駅伝部監督就任の話が舞い込んで来ました。何回か要請があったのですが仕事の都合で当初は断りました。しかし第2の人生を幸二や若き選手達と共に裕也と自分が果たせなかった箱根駅伝大会総合優勝を目指すのも悪くないな…と思い、商社を辞めて駅伝部の監督を引き受けることにしました。

 幸二は日夜練習に励み、今年父親と同じ8区を走り、区間新記録を出し、帝都大学駅伝部の初の総合優勝に大きく貢献したんです。」と夏雄が幸二の栄誉を称えるように力強く語った。

 

 「当時裕也は30代…。まだ7歳の幸二を残して、さぞ無念だったと思います。」と夏雄は涙をこらえて言った。

 

 幸二も涙をこらえているのが参加者にも分かり、会場からはすすり泣きの声が聞こえてきた。

 

 秀幸は駅伝部で一緒に汗を流し、箱根駅伝大会で共に走った仲間の裕也が非業の死を遂げたことは全く知らなかっただけに深いショックを受けていた。

 

 「秀、ステージに上がって来てくれるか…」と夏雄からの急な声がけに、秀幸はすぐには反応できなかった。隣に座っていた櫻子が「堀越君が呼んでいるわよ…」との言葉に我に返った。「なぜ、俺がステージに?…」と不思議な気持ちでステージに上がった。

 

 「秀、俺の横に立ってくれ…」と夏雄に言われて、秀幸、真ん中に夏雄、その隣に幸二が並んで立った。

 

 「亡くなった裕也が長年、秀に渡したいと思っていた物がある。それを今日、幸二から秀に渡すよ…」と夏雄が言うと、幸二が手に持っていた白い封筒を秀幸に渡した。

 

 「ん?何…?」と秀幸が封筒を見ると、宛名には「寺嶋 秀幸 殿」、裏には小さい文字で「昭和64年1月3日 箱根駅伝大会」と手書きで書かれていた。

 

 「また白い封筒か…?」と困惑した表情の秀幸であったが、夏雄から送られて来た封筒とは明らかに別物と分かった。相当の年月が経過したことがうかがえる赤茶色のシミがところどころにある封筒だった。何やら厚ぼったい物体が中に入っている感触がした。

 

 「中身を出していいの…?」と秀幸は幸二に断りを入れてから、封筒をさかさまにすると秀幸の手のひらにレンズの割れた眼鏡がすべり出てきた。

 

 「秀、これに見覚えあるだろ?」と夏雄が秀幸に聞いた。

 

 「これは確か…」と秀幸はまじまじと見た。すると夏雄が、

 

 「秀は目が悪く、でもコンタクトレンズが嫌で、眼鏡を掛けてレースに出ていたよな…。昭和64年の箱根駅伝大会でもこの眼鏡をかけて出場したが、秀がゴール直前で倒れたはずみで眼鏡が外れて道路に落ちてレンズが割れてしまったようだ。秀はそのまま救急車に乗せられて行ってしまい、この眼鏡が現場に残されていたんだ。

 裕也と私はそれに気づき、裕也が眼鏡を拾い上げると私に、「後で俺が病院に持って行くよ…」と言って、裕也は眼鏡を自分の首に巻いていた帝都大学駅伝部のオリジナルタオルにくるんだんだ。

 しかし、裕也は翌日、秀が入院している帝都大学病院に行くも、秀が意識不明の重体だったので渡すことはできず、しばらく秀の快復を待ったんだ。数日後に秀の意識が戻ったものの、秀は自責の念で駅伝関係者に会うことを拒んだことや、裕也自身が4月から大阪での就職もあり、秀に眼鏡を返すことができないまま、時が経過してしまった。

 ところが、裕也が鉄道事故で亡くなってしまった。私は裕也の奥さんと一緒に遺品整理をしていたら、タンスからは我々が今日着ているおそろいのこのベストや、机の引き出しからはこの白い封筒が出てきたんだ。封筒の中を見たらこのレンズの割れた眼鏡が入っていた。

 奥さんにその場で確認したら、封筒の字は確かに裕也の字だが、そもそも裕也は眼鏡を掛けていなかったと言う。しかし私は割れたレンズを見て思い出した。この眼鏡はあの時、秀が掛けていた眼鏡だと…。その時はいったん私がこの眼鏡を預かることにした。今日、このイベントに秀も幸二も参加すると分かったので、今日この眼鏡を返す絶好のチャンスと思った。そしてもともと裕也が拾って秀に返すと言ったので、今は亡き裕也に代わって息子の幸二から秀に返すよ…」

 

 「あの時の俺の眼鏡…」と秀幸がレンズの割れた眼鏡を軽く握りしめて、頬に優しく擦り付けた。裕也の優しさ、そして夏雄の粋な計らいに秀幸は目頭が熱くなった。

 

 「幸二君、夏雄、そして天国にいる裕也…ありがとう、ありがとう…」と秀幸はその場に泣き崩れた。

 

 それを司会席からもらい泣きしていた辰次郎が秀幸のそばに近寄って、秀幸の腕を自分の肩に回し、立ち上がるように促した。

 

 「なあ…秀、みんな共に箱根駅伝大会を目指し、苦しい練習に耐えてきた仲間じゃないか…。苦しさ、悲しさは秀だけじゃないんだ。この平成の30年間、みんなそれぞれの人生があったんだ。でも、そういう感情はこの平成のうちに清算して、次の新しい時代を明るく、楽しく、幸せにするのが今日の趣旨だ。分かるだろ?」と、辰次郎は秀幸を支えるよう秀幸の席まで一緒に歩きながら、いつになく辰次郎が優しい口調で語った。秀幸は涙が止まらなかった。辰次郎は司会席に戻ると厳しい表情に一変して、

 

 「おい!これからみんなで陸上競技場に行って走るぞ!。昭和組はまだ昭和64年の箱根駅伝大会のゴールを果たしていないんだよ。つまり今日に至るまで30年間レース続行中なんだよ。だからタイムアップの平成最後の今日4月30日までにゴールしないと失格になっちゃうんだよ。だから今日、ゴールをするんだ!まずは平成組も昭和組も全員、陸上競技場に集合だ!」とマイクを通じて号令をかけた。

 

 参加者が全員「おー!」と賛同の掛け声とともに、会場を後にして陸上競技場へと向かった。

 

f:id:sanpouji:20190425124414j:plain

 

 全員が陸上競技場の青々とした芝生のフィールド内に立った。辰次郎がメガホンを持つと、

 

  「平成組と昭和組に分かれて、この400メートルトラックで駅伝をする。1人100メートルを走る。順番は箱根駅伝大会と同じ順番だ。ただし、幸二は裕也の代走として昭和組の8区を走るように!平成組の8区は補欠の誰か…幸二の代わりに走ってくれ!

  現役女子マネージャー諸君!駅伝部の部室から我が校のギンガムチェックの襷2本とスターターピストルとゴールテープを持って来てくれ!

 1区はその襷を肩から掛けろ!各人スタート地点に着け! さくちゃんと朋ちゃんはゴールテープを持って、ゴール地点で待機して!ほかの人たちは全員応援!藤間監督!すいませんがスターターをお願いします!」と次から次へと辰次郎の号令が陸上競技場に響いた。

 

 両組のランナーは蜘蛛の子を散らすように各スタート地点に走って向かった。

 

 「みんな、準備は出来たか?」

 

 「おー!」

 

 「じゃあ、藤間監督、スタートをお願いします!」

 

 藤間は踏み台に上がり、スターターピストルを持つ右手を高く上げると、「位置について、用意…」と一瞬の間があった後に「パ~ン」と乾いた火薬音が鳴り響いた。と同時に両組の1区がスタートをした。

 

 さすがに平成組は現役選手だけあって、30歳の年の差のある昭和組との差がどんどん広がっていった。それでも昭和組は苦しいそうな顔をしながらも誰一人歩こうとせず、次の走者へと襷を繋いでいった。

 

 平成組の10区のランナーがゴールした時、昭和組はまだ8区の幸二にようやく襷が渡ったところだった。幸二はあっという間に100メートルを走り切り、9区の辰次郎へ襷を渡した。

 

 「波野先輩、その体形で大丈夫ですか?」と全く疲れた様子もない幸二が辰次郎を心配した。

 

 「余計なこと言うな!」と渡された襷で、辰次郎は軽く幸二の頭を叩いた。

 

 「メタボのおっさん!がんばれよ!」と走り終えた昭和組から檄が飛んだ。

 

 「うるせぇ!」と言いながらも50メートル地点で、もはや汗だくの辰次郎。今にも歩き出しそうな速度まで落ちた。

 

 「歩くんじゃねぇーぞ!歩いたら二次会のスイセイでの食事はお預けだからな…」と拓馬から声が掛かった。

 

 辰次郎は苦しいと見え、口を大きく開け、首と肩を大きく左右に揺らしながら必死で走っていた。もはや返す言葉も出ない状態だった。

 

 辰次郎が接近してきたので、秀幸はスタートラインに立った。今かけている眼鏡を外し、ベストのポケットからさっき幸二から受け取った割れたレンズの眼鏡を掛けた。

 

 「辰、あともう少しだ!がんばれ…」と秀幸は辰次郎に大声で叫んだ。

 

 辰次郎は肩にかけていた襷を外し、片手に握りしめて、秀幸が立っているスタートラインに崩れにように走り込んできた。

 

 「秀、後を託したぞ。必ずゴールのテープを切るんだ!そして、この30年間、秀が背負ってきた負の感情も同時に断ち切るんだぞ…。みんながゴールでお前を待っているからな…」と辰次郎は言葉ともならない声で秀幸に話しかけた。辰次郎は襷を秀幸に渡したとたん、その場でひっくり返って仰向けになってしまった。

 

f:id:sanpouji:20190425124932j:plain

 

 秀幸は辰次郎が心配で後ろを向きながらしばらく走った。仲間数人が辰次郎を両脇から抱え起こすと、辰次郎はこちらに向かってニッコリと右の親指を立てた姿を見て安心をした。

 

 秀幸は襷を肩にかけて、結び目を脇腹辺りでギュッと締めた。「さあ、ゴールに向かって走るぞ!」と気合が入った。

 

 秀幸は30年前の箱根駅伝大会を思い出した。鶴見中継所で辰次郎から今日と同じギンガムチェックの母校の襷を受け取った時も、辰次郎は「秀、後を託したぞ…」と言われ、「任せとけ…」と言って鶴見中継所を後にしたことや、応援してくれる沿道の人たちが幟や旗を振りながら大きな声で声援する姿などの記憶が蘇ってきた。

 

 今まで意識的にこの30年間、箱根駅伝大会の思い出は封印してきた。しかしそれは今、走りながらむしろ楽しい思い出に変化していた。さらに心なしか走りが快調になり、ピッチが上がって来た。こんな気持ちは現役の箱根駅伝大会に出場するために、ひたむきに必死で練習していた時以来の感情であった。

 

 「今日はなんと素晴らしい一日なのか…」と秀幸は晴天の青空を見ながらそう思った。夏雄をはじめ、辰次郎らにより平成が終わるこの機に自分が抱えて来たこれまでの負の感情を断ち切れるように仕向けた今日に至るまでの様々な粋な計らいに対して、自分の周りにこんなにも自分のことを思ってくれる人がたくさんいたのかという嬉しさと、そのような優しい仲間がいるとも知らず、自分はこの30年間、自責の念で心を閉ざし、仲間たちを遠ざけていた自分が情けなく思えてきた。

 

 嬉しくて涙が止まらない。涙と割れたレンズで前がよく見えなかった。肩に掛けた襷が走るピッチに合わせて胸元ではねる。「このみんなのやさしさに報いるためにも、今日は絶対にゴールするぞ!」と誓うと走りのギアがトップに入った。

 

 コーナーを曲がると直線に入った。ゴールには平成組、昭和組が入り混じって、秀幸に声援を送っている。櫻子と朋子がゴールテープの両端を持って彼女たちも必死に秀幸を応援していた。

 

 あとゴールまで30メートルに迫って来た。鼓動が激しくなってきた。早くゴールしたいとはやる気持ちと、30年前の悪夢が再び起こるのではないかとの恐怖心と緊張感と様々な思いが胸に混み上がって来た。

 

 急に胸が苦しくなり、全身から汗が湧いてきた。足がもつれて、秀幸は転倒してしまった。

 ゴールにいた全員が「ああ…」と嘆き声がした。みんなが秀幸の周りに駆け寄って来た。

 

 「秀、大丈夫か?」と夏雄が秀幸の体に触ろうとすると、

 

 「俺の体に触れてはダメだ!棄権になってしまう…」と秀幸は苦しくも自力で立ち上がった。

 

 「大丈夫だ。必ずゴールする…」と秀幸は右手で襷を握りしめて再び走り始めた。

 

 みんなも秀幸に並走するようにゆっくりと走り始めた。「秀、秀…」と秀幸コールがだんだんと大きくなっていった。それに促されるように秀幸のピッチも上がってきた。

 

 「あともう少しだ…」と辰次郎が声をかけると、秀幸は「大丈夫だ…」と辰次郎にアイコンタクトをした。

 

 秀幸は妻の櫻子がゴールテープを片手で持ちながら、全身を使って応援してくれいる姿に向かって走った。

 

 そして秀幸はゴールテープを切った。と同時にその場にばったりとひざまずいてしまった。

 

 「秀、よくやった!」と夏雄は息が乱れて大きく揺れている秀幸の肩を抱き寄せた。

 

 「秀、頑張ったな…。これで吹っ切れたな?」と辰次郎も涙で顔をぐしゃぐしゃにして秀幸に抱きついた。

 

 「うんうん…」と秀幸は息が切れて言葉にならず、ただ泣きながら頷くだけだった。

 

 「秀ちゃん、良かったね…。本当に良かったね…」と櫻子も涙をぼろぼろ流しながら、秀幸の背中に頬を寄せた。秀幸はひざまずいたまま泣いた。昭和組の駅伝メンバーも共に泣いて喜んでいた。

 

 「ありがとう。みんなありがとう!頑張ったのは俺だけじゃない。みんな頑張ってこの平成の30年間を生きて来たんだ…」と秀幸は櫻子から差し出されたタオルで涙を拭きながら立ち上がった。

 

 「バンザイ!バンザイ!」と平成組から声が上がった。

 

 「ようし!胴上げをやろう!」と辰次郎が言った。

 

 「まずは堀越監督からだ…」と平成組が夏雄を胴上げし、3回宙に舞った。

 

 「次は藤間監督だ…」と言うと、藤間が「おい、おい、お前達80のジジイを殺す気か!」と杖を突きながらその場を離れた。

 

 「じゃあ、次は内助の功のさくちゃんだ…」と辰次郎が言うと、嫌がる櫻子を無理に胴上げした。キャー、キャーと叫び声を上げながら櫻子の体も3回宙を舞った。

 

 「次は今日のイベントの最大の功労者の俺だ…」と辰次郎が無理やりに円陣の中に入り込んできた。

 

 「やめろ!そんな体形をして上がるわけないだろう!」と拓馬と伸一が止めにかかったが、「いいか…落としたら承知しないからな!」と辰次郎が言うと、メタボの辰次郎をみんなで抱え上げた。

 

 「重い…」と言いながらも、「せ~の」と掛け声とともに1回上へ上がった。「もう一丁!」と辰次郎が言うと、また「せ~の」と少しだけ上がった。「もう一丁!」と3度目を試みるも上がらなかった。

 

 「もう、波野先輩は重すぎます。もう腕がパンパンです!」と平成組はヘトヘトになって、辰次郎を芝生の上に降ろした。

 

 「なんだ!若いくせにだらしない奴らだ!よし、最後は秀、お前で〆るぞ!」と昭和組も加わり、秀幸は大勢に囲まれてしまった。「俺はいいから…」と秀幸が嫌がるも担がれてしまった。

 

 「1回でいいよ…」と秀幸が言う間もなく、すでに体が高く宙を舞った。

 

 「もういいよ…止めてくれ!」と秀幸が叫ぶも、「まだまだ…」と辰次郎が煽ると、再び宙に舞った。

 

 「もう腕が限界です…」と平成組が言うも、「まだまだ…」と辰次郎が再び煽ると秀幸の体が高く舞い上がった瞬間、秀幸の体勢が崩れて、落ちてくる角度が変わってしまった。秀幸を受け取ろうとする受け手側のバランスも崩れてしまい、秀幸はドスンという鈍い音と共にそのまま地面に頭から叩きつけられた。

 

 「おい、秀、大丈夫か?!」という大勢の声が秀幸の耳にかすかに聞こえたが、秀幸はそのまま意識を失ってしまった。

 

 「おい!誰か、救急車を呼べ!…」数分後にサイレンと共に救急車が陸上競技場内に入って来た。

f:id:sanpouji:20190425125125j:plain

 

 「起きて!大丈夫?…起きて!」

 

 女性の声で起こされた。秀幸は少し目を開けたが女性の顔が寝ぼけていてはっきり見えない。

 

 「大丈夫?…笑ったり、泣いたり、悲鳴を上げたり、ひどい寝言だったわよ…。あら、汗びっしょりじゃないの…」と女性が言った。

 

 「ここはどこ?」と秀幸は上半身を起こした。

 

 「しっかりして!」とその女性は秀幸の肩をポンと軽く叩いた。

 

 するとそのはずみで秀幸の意識が戻った。ハッとした秀幸はすかさず周りを見渡すと、

 

 「なんだ、夢か…」

 

 <終わり>

 


爆風スランプ Runner

 

 

// ]]>

眼鏡とベストとギンガムチェック(17)-水の章Ⅳ

f:id:sanpouji:20190104150655j:plain

 

あの日から2週間が経った。
日に日に鮮明に記憶が甦った。
凜……
母親に全てを話し、事故の詳細を聞いたが実感は無くて、あの街に行けばまたすぐに会えるような気がした。封印していたその頃の写真は実家に帰った時に見れるようにしておくと母は言っていた。
あのまま生きていたらどんな女性になっていなのだろう。今でも友達でいられたのだろうか。考えるうちに凜の家族の事も少し気になったが、知るすべは無かった。

凜の夢はもう見なくなった。
凜には夢の中でも会えなくなった。

f:id:sanpouji:20190412155949j:plain



その日はお客様にトラブルがあり残業を余儀なくされていた。
美波の職場はアジア専門の旅行代理店でツアーは勿論、航空券・ホテルやダイビング・マリンスポーツの手配など多岐に及ぶ。旅行、特にビーチリゾートが好きなのでいずれは海外で仕事をしてみたいという思いがあり、この業界に足を踏み入れたが現実はなかなか厳しかった。

トラブルのツアーのお客様は予定のフライトがキャンセルになり現地に足止めされていた。なんとかホテルを確保し翌日の便に乗れるように手配を終えて一息着いたのは20時を回っていた。
奏太に「一杯行く?」と誘われ久しぶりに二人で飲みに出掛けた。

冷えたビールを飲んで一息ついた時

「これ、お土産」

と徐に奏太に渡されたのは可愛くてカラフルなシーサーの置物。

「お土産って沖縄の?
一緒にいたのにお土産…?」

「凜ちゃんが買うはずだったやつだよ。シーサーはニコイチだからな、凜ちゃんと美波だよ」と奏太は笑った。

「……ありがとう。嬉しいよ。あの時買ったの?空港で走り回ってた時。
でもさ、シーサーじゃなかったかもよ」

「それ言う?」

奏太は優しい男だ。いつでも美波の気持ちをわかってくれる理解者。
でも親友以外にはなれない。
いや、親友で十分だ。
奏太という存在が大切だから。

「ケリーは元気?最近色々あったし、しばらくお休みしてた」

「元気だよ、美波が来ないけど何かあったかと心配してたから仕事のせいにしといたよ」

将来を見据えて、英語があまり得意ではない美波は英会話スクールに通っているが、このところのバタバタでしばらく行けていなかった。
ケリーは美波の英会話の教師でもあり、奏太の恋人でもあった。イギリスと日本のハーフで笑顔がとても似合う人。
奏太の紹介でスクールに通うようになって半年、日常会話とビジネス会話も困らない程度に話せるようになっていた。

「近いうちに連絡しておくね。あんまりサボると怒られるから」

「だな。今度一緒に飯でも食おう」

そんな話をしながら久しぶりによく食べ、よく飲んだ。あの一件から心身共に少し参っていたが、靄が晴れすっきりはしていた。
また仕事を頑張ろうと思えた。

f:id:sanpouji:20190412160021j:plain



そんなある日、美波は吉田に呼び止められた。また何がやらかしたかと心臓がドクンと波打った。

「唐突だが、ちょっと頼み事がある」

吉田にそんな事を言われたのは初めてで驚いた。
「私の友人、沖縄で会った男だ。
彼の息子が旅行に行くのにうちで手配してほしいと頼まれた。明日来社するから話を聞いてやってくれ。簡単な詳細は後で渡す。私は明日の朝から急遽宮崎だ」

頭の中にいくつかクエッションマークが浮かんでいたが、はいと返事をした。
確か沖縄で会っていたのは大学時代からの友人と言ってた。

美波はその日、久しぶりの英会話があったので、吉田から渡された資料はバックに放り込んで足早に会社を出た。


翌日出社してからはっと思いだし、慌てて資料を出した。最初に目に入った氏名欄には「稲嶺 凌」と書かれていた。

イナミネリョウ ?

いや、同姓同名の別人かも知れない。
沖縄なら稲嶺と言う名字は珍しくない。
しかし、もしあの凌なら…
凜の兄の凌だとしたら…

これは偶然?そんな偶然がある?
頭が混乱した。資料を持つ手に力が入り動悸が激しくなる。
奏太に顔色が悪いけどどうかしたかと聞かれ、何でもないとその場を去った。

冷静になろう。
まだあの凌ちゃんだと決まったわけではない。兎に角会ってみないと分からない。
彼の来る時間まで仕事は手につかず緊張で吐き気がした。

吉田のお客様と言うことで、一般の受付ではなくミーティングルームが用意されていた。
16時、稲嶺凌はやって来た。
美波は受付から呼び出しがあったので身なりを整え向かった。

「失礼します」ノックをしドアを開ける。

座っていた彼が立ち上がり振り返る。
あれから長い月日が経っているがすぐに凌だとわかった。

「凌ちゃん?あの凌ちゃんだよね?」

美波は仕事を忘れ駆け寄った。

「美波、久しぶりだね」

「どうしよう。どうしてここにいるの?あたしの事知ってて来たの?
え、どうしよう、あ、元気そうで良かった。会いたかった!もう一生会えないと思ってた!ついこの前ね、凜の事で色々あって…
ホントにビックリした!」

しどろもどろになりながらも一気にしゃべってしまった。勝手に涙が溢れた。

「最後に会ったのは随分昔だもんな。大きくなったな。美波も元気そうで良かったよ」と凌は笑った。

「うん!でもあの、どうして吉田さんの紹介なの?」

「何から話そうかな?とりあえずここに来たからには旅行の話しから先にするよ」

「あ、そうだね。ちょっと待って、落ち着く」

「よろしくね。旅行に行きたいのは本当なんだ。久しぶりに、ちょっと先なんだけど長期で休みが取れそうだから」

凌はアジアのビーチリゾートへ10日程行くのが希望だが、ツアーばかりなのでフリープランで行きたい事、ダイビングをやりたい事、アジア方面は詳しくないので色々話を聞きたいと言った。
その場で思い当たるいくつかのプランを出し、検討すると言うことでその件を終えたが、内心それどころではなかった。

「仕事終わったらご飯でもどう?積もる話しもあるしね」

「もちろん!18時に終わるから下のカフェで少し時間潰しててくれる?」

「分かった、じゃ後でね。食べたいもの考えといて」

何て事だろう。
かっこよくて頼もしくて優しかった凌ちゃんだ。
何故ここに現れたのか、何故吉田の紹介なのか聞きたい事は沢山あったが、嬉しさと懐かしさの方が勝っていた。
と同時に凜の事も思い出された。
奏太に軽く事情を話すとそんなドラマみたいな事があるかとぽかんとしていた。
美波は自分の仕事を片付け、何かあったらお願い!と奏太に頼み仕事場を後にした。

 

f:id:sanpouji:20190412160132j:plain



「凌ちゃんお待たせ!」

「お疲れ様。さて何を食べたい?」

「任せる。何だか全然お腹空いてないの」

「そう?じゃ行ってみたい店があるからそこでいいかな?ちょっと移動しないとだけど」

カフェを出てタクシーで向かったのはシンガポール料理を出す店だった。
海南鶏飯、いわゆるハイナンチキンライスが美味しいと評判らしい。

細い階段を上がりドアを開けると、イラッシャイマセーと元気のいい声が響いた。
店内は明るくて広かったが、凌は窓際の角の席をお願いした。籐で出来たパーテーションで多少回りからは遮られていたからだ。

凌はタイガー、美波はアンカービールと青パパイヤのサラダとハイナンチキンライスをオーダーした。

「お酒も飲めるんだね、大人になったね」

「飲める飲める、そんなに強くはないけど」

一息ついて凌が優しい口調で話し始めた。

「美波、凜の事は思い出したんだね?さっき色々あったって言ってたからちょっと驚いたよ。良かった、思い出してくれてありがとう」

「うん。やっと思い出せたよ。随分時間かかっちゃったけど」

すぐに冷えたビールとサラダが運ばれてきた。

「そうか。じゃその話は後でゆっくり聞くよ。まずは昔話しからね。凜の事があって、沖縄にしばらくそのままいたんだ。慌ただしく時が進んで行くな、って俺は他人事みたいに思ってた。実感も無かった。もちろん悲しいとか寂しいとかいろんな感情はあったけどその時は不思議と冷静だった。
葬儀も向こうでやって、凜はじいちゃんのお墓に入ったんだ。1週間後、1度家に帰った。
あの時の事は覚えていないよね。美波のお母さんにそっとしておいて欲しいと事情を聞いて、会えなかった。凄く心配だったけど。それからバタバタと沖縄に帰ることが決まって、引っ越した。高校を出るまで向こうにいてその後帝都大に進学が決まって一人でこっちに来て、就職もしたからずっと東京にはいたんだよ」

「そうだったんだ。凌ちゃんは東京にいたんだね…凜は沖縄に眠ってるんだ。せっかく行ったのに知らなかったから…」

メインが運ばれてきた。
見た目もかわいらしくニンジンの花が飾ってあり、いい香りがした。

「また行けばいいよ。案内するから。
じゃ、美波が一番気になってる事ね。
親父の大学時代の1つ下の後輩が吉田さんなんだ。親父は沖縄にいるから、吉田さんが出張の時なんかにちょくちょく会ってたみたいだよ。古い付き合いだからね、きっと色んな事をたくさん話した中で当然凜の事も吉田さんは聞いたんだろう。凛の親友だった美波の事もね。
親父は凛と美波が大好きだったから。
恐らく最初はその美波が偶然にも自分の部下だなんて思いもしなかったんじゃないかな」

「そんな偶然…あるんだね。頭がついてかないよ」

美波は一気にビールを飲み干した。
料理はとても美味しいのだろう。
でも全く味がしなかった。
味覚を感じる余裕が無かった。

「吉田さんは親父の話を聞くうちに美波だと確信した。でも凜の存在は美波の中に無いから聞くに聞けなかった。機会を見計らっている時に沖縄出張が入り、美波も連れていくことにした。あの事故がきっかけなのは明白だし、もしも沖縄がキーワードになっているとしたら何か変化があるかも知れないって。
俺が吉田さんに会ったのはあの時が初めてだよ。親戚の集まりがあって向こうに帰ってたんだ」

「なんだか他人事みたい。怖くなってきた」

「詰め込みすぎかな?大丈夫?」

「大丈夫、それで?」

「ちょうど旅行の話しもあったし、凜の事は分からなくても俺の事は覚えている可能性もある。そこから全部思い出すかもしれないから一度会ってみてくれないかと言われたんだ。沖縄と俺のどちらかがきっかけになればいいって」

「吉田さんがそんな事思ってたなんて。いつも怒られてばっかりで嫌われてるのかと思ってた…」

「いや、すごく心配してたよ。そんな大切な友達の事をずっと忘れたままじゃダメだってね。でも俺に会わなくても思い出せたんだね」

「何であたしが沖縄に行くのか疑問だったんだ。吉田さん帰ってきたらお礼言わなきゃ。凜を思い出したことも知らせないと。凌ちゃんも会いに来てくれてありがとう」

何と不思議な縁だろう。
ずっと昔から、何百年も前からどこかで少しだけ、でもずっと繋がっていた。忘れても忘れても絶対に思い出して、思い出させてくれる人もいて今まで来た様な深い関わりを感じた。


それから、お互いの話を沢山した。
学生時代の事、仕事の事、凜を思い出したあの沖縄の海での出来事、それに至るまでの経緯、奏太の存在……
凌はwebデザインの仕事をしていて1年前に自分の会社を持った事。時間があれば潜りに近場の海へ行く事。
それと、あの頃の話し。

何時間話しただろう。気づくと閉店間際の時間だった。

元気の良かったスタッフは少し眠そうな顔をしていた。

「1週間後に旅行のプランを決めてまた会社に行くよ。今夜はもう遅いし送っていくよ」

凌はそう言ったが一人で大丈夫と言い別れた。

今夜は一人になりたかった。何だか宙に浮いているみたいな感覚だった。これは現実なのだろうか。長い夢を見ているんじゃないか。お酒のせいもあってかぼーっとしていて電車を乗り過ごした。

やっと部屋にたどり着いて玄関のドアを開けると、シューズBOXの上で仲良くシーサーが笑っていた。
つられて笑顔になりながら「ねぇ、あたしって幸せなのかな?」と問いかけてみた。

眼鏡とベストとギンガムチェック(16)-海の章Ⅳ

f:id:sanpouji:20190104150655j:plain

(7)ユージとチューヤン

 人気のないバスターミナル、泣き崩れているマスダのそばに人影が近づいていることにユージは気づいた。階下から上ってきた到着バスのライトで逆光になり顔や服装はよく理解できないが、どこかで見覚えのある男の影のような気がした。ユージがマスダに踏み出そうとしたとき、マスダが、その人影に抱き着いたように見えた。同時にバスのエンジン音とクラクションですべてがブラックアウトしたようだった。
 

 ユージは、踏み出した足を止めて、凍りついたようにただただ立ち尽くした。そして、そのままゆっくりと背を向けて、今上がってきたばかりのエスカレーターに平行する下りのエスカレーターに乗った。ユージの背中が闇の中に沈んでいった。
何もしてあげられない自分と勇気の小ささが喉の奥で乾いていた。その後、マスダがその男に、「肩を借りていいですか?」といって、さらに大きな声で泣き始めたのをユージは知る由もなかった。

 

 深夜の明治通り、昼間の喧騒が嘘のように車が居なくなる瞬間がある。その上に交差する高速道路。隣には、少し離れて弧を描く線路。さらにその西側を二本の段違いの線路が通っている。今夜は、その上に満月。春を待つ夜空は雲がない。だから余計に冷えている。その凍てついた空気の中、それらの風景が氷に秒針を止められたように佇んでいた。

 

 今夜のバスターミナルでの出来事で意気消沈したユージはその足でサケトマスに立ち寄った。自分でも悪い酒になると思いながら、大将に甘えるように、自分の中の不甲斐なさを、いつものオオタへの批判で少しでも慰めようとした。なんの解決にもならないことは、百も承知だった。いつもなら追い出される時間だったが、さすがに大将も見かねたのか、とうとうとオオタの話をユージにしていたが、今のユージの耳には届かなかった。正直、オオタの人柄がどうの、こうのどころではなかった。むしろ、あの黒い人影を消せる消しゴムがあったら、一気にゴシゴシやりたいような気分だった。

 サケトマスを出て、まだ人気のある店の前を通ったが、顔を出す気にもならず、やり過ごして駅へ向かった。途中で、まだチューヤンにバスターミナルへ行った後の話をしていなかったことを思い出しLINEを打った。

 

ユージ

「チューヤンが言うようにバスターミナルへ行ったけど、シェフには会えなかった」

チューヤン

「そうでしたか、心配ですね。シェフの様子がいつもと違っていたので気になってます。」

ユージ

「そうだね。何かあったのかも知れないね」

チューヤン

「今までもシェフが休みの時、何度かLINEで指示もらったけど、あんなふうに、レシピを何度も間違えることなんてなかったです。」

 

ユージは、〝そうだね〟と書かれたフライパンのキャラクターのスタンプを打った。

チューヤンも〝御意〟と書かれた人気の医師ドラマのスタンプを返した。

 

ユージ

「ねえ、これから会わない?」

チューヤン

「あー、いいですよ。さっきお店戸締りしてきたところです。どこかで寄って行こうかなって、思っていましたよ。」

ユージ

「了!では、前にショータと3人で行った店で落ち合おう。あそこなら朝までやってる」

チューヤン

「私、明日は休みです」

ユージは、〝OK〟と一言打った。

チューヤンはもう一度、〝御意〟のスタンプを返した。

f:id:sanpouji:20190408143423j:plain

 二人は、ターミナル駅から2つ目の地下鉄の駅、歩いても程なく近い場所にあるベトナム料理店で合流した。以前、チューヤンが、ここが東京で一番おいしい店だと言って、ユージとショータを誘ってやってきたことがある店だ。オオタがチューヤンを激怒した日のすぐあとのことだった。

 

「ユージさん、ここのバインセオは、特に美味しいですよ」

 

「これ、食べたよな、この前。ベトナム風のお好み焼きだろ?」

 

「はい、最高です」

 

 二人は、メニューを吟味しながら、それほど重くないメニューを2,3品を選んだ。他愛のない世間話をしながら、仕事のこと、将来のこと、いろいろと二人で話した。意外とチューヤンとこんなに話をしたことがなかったことにユージは改めて気づいた。また、職場で見られない素朴で明るいチューヤンがちょっと眩しく見えていた。

 

「私、この前、オーナーから叱られた後、オーナーとご飯食べたんですね。」
バインセオの具をミントとパクチーの葉に挟みながら話し始めた。ユージは、ここでもまたオオタの話かと、ちょっとウンザリした。

 

「そう…」
関心がなさそうな振りをみせたが、チューヤンが続けた。

 

「で、なんであんなにオーナーが怒ったのか、ちゃんと私に話してくれました。知ってましたか?オーナーって30歳ぐらいのときに、一度、新潟に帰って実家のお兄さんがやっている和食の店を手伝っていたんですって。他の仕事もしてたみたいですけど。」

ユージが初めて聞く話だった。

 

「和食のおやじが、フレンチだなんて笑っちゃうな…んで?」
ユージは、タイガービールをボトルごと飲み干し、店員にもう一本!と人差し指で合図をしながらチューヤンの話の続きを聞いた。

 

「その時、はいずフード?あいずフード?なんか有名な会社あるじゃないですか?」

 

「ワイズフードのことか?あそこは凄いな、地方から出てきた…えーっと、確か山陰の方だ、地方の星、勢いがあるな。俺も一度、転職考えたよ」

 

「で、あの会社に実家が騙されたんですって?」

 

「昔のことだろ?そりゃ、いろいろあるんじゃないの?企業の成長の陰にはさ、そんなもんなんだよ、世の中。」
ユージは、突き放すように応えた。

 

「でも、結局、最後にお兄さんが自殺に追い込まれたんですって」

 

「…そうなん・・・・」さすがのユージも少し言葉を抑えた。

 

そして、合点がいった。

 

「あの店、確かワイズグループの東京初進出の〝かにそば〟で有名な店だよな。」

 

「そうだったんですよ。それを聞いて、私、逆に凄い謝りました。」

 

「でも、チューが謝る必要はないんじゃないの?それとこれとは別な話だろうよ。そりゃ、お兄さんの件は確かに気の毒だと思うし、そもそも身内の恨みがあったかもしれないけどさ、俺たちまで巻き込むな…って感じ。最初からそう言ってくれればさあ、俺だってさあ…少しはさあ…」
ユージは、出てきたばかりのタイガービールを半分くらいまで一気に呑みこんだ。

 

「ユージさんは、冷たい人なのか、優しい人なのかわからないですね…」

 

「オーナーは、そもそも人間的に合わないんだよ。5年前にシェフが来てくれっていうから、一緒に店移っただけでさ、でも、チューには、優しくしちゃうなー」

酔いがきつくなってきていると思ったが、頭と口が別な生き物に制御されている気がした。

 

「ユージさん、一つ、聞いていいですか?」

 

「なに・・・・」

チューヤンが、バインセオの油で汚れた指先をナプキンで拭き取り、一口だけ水を飲んでから言った。

 

「ユージさんって、もし、私とシェフのどっちかを彼女として選べ、って言われたらどうする?」

 

「なんだいきなり、その質問。」

 

「ハグラカサナイデクダサイ…」チューヤンが、いきなり片言の日本語になった。

 

「それは、チューでしょうよ、チューの方が可愛いし、愛想もあるし、おそらく料理のセンスも、シェフより上だと思うよ。」

 

「ソーユートオモイマシター。」また片言。

 

「シェフだよ!って素直に言ってくれたら、もっと好きになったのにな。やっぱ、ベトナムにはショータさんを連れて行こうっと。ユージさんは、いつも自分に嘘ばっかり。そして、男としては、スコシダケチイサイデスネ…」

 

 〝こいつ、都合の悪いとこだけ片言になりやがって〟と思ったが、あまりにも図星なことを指摘され、胸の奥に小さな棘を刺されたみたいな気がした。そして、気を取り直して言った。

 

「ああでもショータは、だめだ。どうせ来年も、再来年もあいつは、大学生だ…」

少し眠くなってきた目をこすりながら、ユージはやや引きつった笑いをした。時計の針は、すでに始発の電車を待つ時間帯に入っていた。

 

f:id:sanpouji:20190408144324j:plain


(8)中央線

 ある冬の日、夕方のラッシュアワー
 東京駅中央線の始発電車の車内。窓から横並びに山手線と京浜東北線のホームが見える。車内は結構な込み具合だ。その男の隣に凛とした長い髪をブルーのギンガムチェックのリボンで束ねた女と赤いスーツケースが流されるように近づいてきた。途中次々と乗ってくる通勤客にスーツケースもろともクルクルと回転させられながら、2回転半したところで男の顎のすぐ下に、そのリボンはたどり着いた。

 女の左腕が伸びきったところにスーツケースがあり、そのままそのスーツケースが手の届かない場所まで行ってしまうのかと女は心配になったのか、さらにもう半回転してハンドルを持つ手を右手に取り替えた。丁度、男の左肩に女の顎先が触れるか触れないかという微妙な位置に変わった。女は小さな会釈をしながら、「これ新宿行きますか?」と男の左耳あたりに背伸びをして、囁くように訊ねてきた。

 男は、一瞬このシチュエーションに戸惑った。

〝これって、あのスターどっきり㊙カメラか?〟

「これって、新宿行きますか?あんまり乗ったことないもので…。」
もう一度左耳が聞いた。

 男は、気を取り直して都会で暮らす者の心得として対応することにした。
「神田、御茶ノ水、四谷、次が新宿です。ああ、でも何か事故か何かあったらしく、この時間は各駅停車なので10個目です。」

 女は、1つめ、2つめとドア上の路線図を見て頭を上下に動かしながら数え始めた。

「大丈夫です、僕が教えますので安心してください」。
男は、内心、まだどこかにカメラがいるのではないかと疑っていた。

神田まで二人は黙っていた。

御茶ノ水に着くまでに、女は「ありがとう」を1回、そして「ごめんなさい」を2回言った。

乗客が御茶ノ水で少しだけ降りた。ふたりの間にわずかな空気の流れができた。冬の乗客は、コートやダウンジャケットで結構な着ぶくれをする、少しでも降りてくれるとフッと楽になる。

総武線との乗り継ぎ連絡を待っている間、電車が止まってしまったのではないかと、女が心配そうな顔をしているので、男は、黄色い電車とオレンジ色の電車が、ここの駅で連絡していることを説明した。

その間に電車は動き出し水道橋に着いた。

女が北側の窓を目で指しながら、何を工事しているのかと聞くので、巨人軍のドームスタジアムが新しくできるのだと伝えた。

二人は、また飯田橋まで黙った。

市ヶ谷に着く手前で男は、後ろの恰幅のいい白髪の老人の生温かな吐息が右の耳裏に当たるその感じに不快感を覚えて、女の側に顔を少しだけ向けた。

四谷に着くまでの間、男は、あと5つで新宿だと伝えた。

信濃町につくまで、女は国鉄の路線図に見入っていた。東北新幹線は、上野が終着駅になっていた。

男は、千駄ヶ谷に着くとき、女のスーツケースに出雲大社の御守りと「HND」とアルファベットで書かれた航空会社の赤いタグが着いたままだったことに気づいた。

代々木駅のホームを滑り出したとき、少し戸惑いながらも男は聞いた。
「出雲空…」
その瞬間、次は新宿だという車内アナウンスにかき消された。新宿に着くまでの時間があまりに短かった。

 男は、改めて「新宿です。着きましたね。」と言い、女は、「ありがとうございます。」と言いながら、二人は、車両の奥から迫りくる見えざる力によってホームに押し出された。

 女は、軽く頭を下げたが、それに続く伝えるべき言葉を吐き出すこともできないまま、今度は、川の流れに押し流されるように、人ごみのなか、スーツケースと共に流され始めた。女は、自分で動いているのか、そうでないのか判断がつかなくなっていた。男は反対側の出口だったので二人の距離はみるみる開いてしまった。

 男が今一度振り返ると、揺れる人ごみの中に矢を通したように、わずかな隙間が開き、その小さな画面に、赤いスーツケースとブルーのリボンが階段の降り口で止まっているのが見えた。その躊躇している姿を悟った男は、幾重もの人の川の流れに逆らい、女のいる位置までかき分けるように動いてきた。

男はもう一度、女に声をかけた。

「スーツケース、下まで。」

「あっ、ありがとうございます。」

 男は、赤いスーツケースを持ちながら、階段を一歩ずつ降りた、その後ろを女が歩みを合わせて降りてきた。男は、航空会社のタグの下にアルファベットで、Tの文字が貼ってあったのを見つけた。

 

二人とスーツケースは、階段を降り切った。

 

 しかし、行きかう通勤客は、雪崩のように次々と階段の上から降りてきて、二人に猶予を与えることをしなかった。人ごみにかき消されるように二人は、再び小さく頭を下げ離れるしかなかった。

 

男は、素敵な人だと直感的に感じた。

女は、この街にも優しい人がいるのだと安堵した。

f:id:sanpouji:20190408143511j:plain


 あれから1ヶ月近くが過ぎた。男は所用で都心へ向かっていた。乗りこんだ駅では自分が最後に乗り込んだのでドアのところに立つことにした。次の駅では反対側の扉が開いた。背後から鈍器で叩かれたように、人々に押されたので、ドアのガラスに向きなおった。隣の線路に左から電車が滑り込んできた。その電車のドア部分が重なるように正面になって停車した。

 そこで男はハッとした。

 そのガラス扉の中に、この前のラッシュワーのスーツケースの女が立っていた。向こうも気がついた。2枚のガラスの扉で空気を挟むようにしてお互いに会釈をした。女は思いついたように、突然、ドアのガラスに〝01〟と指で書き、次に指でVサインを作り、そして男の右方向を指差した。


 それを発車のチャイムがなっても繰り返した。やがて電車は、それぞれの方向へ走り出した。わずか2分ほどの都会の奇跡のような出来事だった。

 

 男は、数日間、この前の不思議な場面のことを思い出しながら、その意味を何度も何度も思案していた。伊勢王百貨店の前を通ったときだった。そのロゴが〝IO〟と書かれているのを見たとき、男は、すべての意味を理解することができた。
 あの時、01と見えたのは、もしや〝IO〟ではないのか?伊勢王百貨店のことではないのか?確かに彼女が指で示した方向に店がある。では、あのVサインは何なのだ?〝2階〟という意味ではなかったか。

 そして後日、その場所を訪ねた。

 2Fの婦人服売場を端から端まで歩いた。男がじろじろと各コーナーを見ているものだから、婦人客たちは少し気味悪そうな顔をしていた。しかし、男は、それどころではなかった。

 やっと、あの女の姿をみつけた。

「こんにちは。何とか謎が解けました。」

「見つけてくれましたね、ああ、あの時は、すいません。変な暗号みたいで。でもあの方法しかお伝えするしかなく。でも少しだけ期待してました。来てくれるの。」

「いえいえ、結構楽しかったです。知恵の輪みたいでした。」

「ホント、まともにお礼もいえず、その節は失礼しました。」

1985年、季節は春になっていた。男は25歳、女は24歳だった。

 

f:id:sanpouji:20190408151714j:plain

 

(9)奇跡のひととき

 

 そんな神様の悪戯のような出会いを切掛けにして、二人の時間が始まった。二人は、お互いのことをよく話した。

 男は、田舎を出て二浪した結果、帝都大学の芸術学部で今、絵画を学んでいること。大学に残るか、このまま就職するか迷っていること。絵描きでは多分食べていけないだろうと思っていること。でも、絵を描く以外に目標が見つかっていないことを。

 女は、修学旅行で東京に来て以来、10年振りに東京に来たこと。あの時は、国電に乗らなかったので、さっぱり東京での動き方がわからないこと。故郷が嫌になって、都会で一人暮らしを始めようとして上京してきたこと。あの中央線で会った日が初日だったこと。友人の紹介で伊勢王百貨店に勤めることができたこと。最初は、正社員としての採用だったが、それを固辞して、無理に頼んで契約社員にしてもらったことを話した。

 男は、今の時代、正社員の口はいくらでもある。気が向いたら選べばいいと話した。
 女は、迷うことはないといい、どこにいても絵を描き続けることがあなたに大切だと話した。

 

 初々しい二人の時間が2ヶ月ほど過ぎたとき、女はこれ以上会い続けるのは難しいと男に電話で伝えてきた。

男は、その理由について執拗に何回も尋ねた。原因が自分にあると思った。

女は、男の執拗な問いに根負けした。そして、自分の中に〝ある命〟がすでに宿っていることを告白した。

 

男は、一度だけ深呼吸をして、黙った。

 

女は、〝ある命〟を自分一人で育てるつもりで上京してきたのだと告げた。そして、あの中央線の夜と同じように「ごめんなさい」と何回も受話器の向こうで言った。

 

男は、もう一度、深呼吸をした。

 

そして、君の力になるから…と告げた。

さらに、これ以上は何も聞かないから…とも告げた。

 

その半年後、
女は、自分にそっくりな女の子を産んだ。
男は、自分にひとつの生きる目的が見つかったと喜んだ。

 

男と女、そして〝その子〟の暮らしが始まった。

 

 男は一緒に暮らすことを望んだが、女はそれを反対したので、駅で3つほど離れた私鉄の駅に男は引っ越した。男は大学院で絵を描きながら、夜は、屋外広告の塗装や、ファッションビルのディスプレイの仕事で、わずかながらふたりを援助した。

 

 たまの休日には、よく3人で近くの公園を散歩した。雑木林の中にひっそりと佇むその古い池には、わずかだが湧き水が出ており水は清らかだった。池というよりは、小さな湖と言ってもいいほどの大きさだ。池の周囲には自然のままの凸凹とした道があった。対岸には張り出した部分があり、赤い屋根が印象的な観音堂と呼ばれる小さな仏堂があった。

 

〝その子〟の4歳の誕生日のことだった。女と〝その子〟は、観音堂が見えるベンチにいつものように腰かけた。ベンチの先から〝その子〟の白い靴下とままごとに使えそうな小振りのコッペパンのようなピンク色の靴だけがちょこんと出ていた。小さな踝にはブルーのギンガムチェック柄の小さなリボンがついていた。二人はいつもの歌を歌いはじめた。男は、そこから少し離れた池のほとりにしゃがみ込み、背中で二人の声を聴いていた。

 

「数字の1は、なーに、」

「工場の煙突」
二人はいつものように交互に唄った。

「数字の2は、なーに、」

「お池のがちょう」
〝その子〟は答えを言い当てるたびに、その喜びを全身を笑顔にして女に伝えた。

「数字の…」
そのとき、水面を水鳥が3羽、右から左へ一列に横切った。

それを見て女は歌を止め、そして、

「いつか、あんな風に過ごせたらいいのにね…。」とポツリと言葉を落とした。

〝その子〟は、あれっ?て顔をして女の顔を見上げた。

男が「そうだね…。」といいながら振り返ると、

女の視線が、祈るように観音堂を見ていた。

 

その夜、〝その子〟のささやかな誕生会を3人でやった。

〝その子〟は、4本のローソクを消した。

男は、心の底から幸せだと感じた。

そして、そんな気持ちを1枚の小さなポストサイズの絵にしたためた。

f:id:sanpouji:20190408143555j:plain


(10)オオタの相談

 大将は、少し酔い加減で煙草をくゆらされながら話した。

 「これがな、俺が唯一知っているオオタちゃんの恋バナ「中央線恋物語」ってやつだな、今時めずらしい純愛だよな。自作の小説じゃないかと今でも思ってんだよね、俺は…。」

 今夜は、サケトマスとマダムの店、そしてメール・ドゥ・ノルドの3つの定休日が重なる季節に1回の日曜日の夜だった。オオタが、珍しくマダムと大将と三人で話したいといい、3つの店の丁度中間点にある、最近、オオタが気に入っている小料理屋に集まった。大きな檜の一枚板のカウンターに席が6,7席ほどあり、4人掛けのテーブル席が2卓ほど。白い調理衣が様になる初老の不愛想な料理人と30代後半くらいで愛想がよく清潔感のある和服姿の女将と二人だけでやっている。近所では、訳アリの二人だと噂されているが、真意のほどは誰も聞いたことがない。

3人は、テーブル席に座っていた。

「で、その後は、どうなったのよ」
マダムが疑いと好奇心を持った目で聞いてきた。

 

「もういいよ、やめてくださいよ。そんな昔の話…」
オオタが止めた。

 

「でもね、今夜はオーナーが呼び出しんたんだから、そのくらいのお土産があってもバチは当たらないと思うわよ。みんないい大人なんだし。ねえ、大将。」

 

「そうそう、老い先短い、わが人生かな…ってね、ねえマダム!」

 

「あら、失礼ね、大将!学年は一緒じゃないのよオ。」

今夜の大将は、いつものクールな感じが微塵もなく、オオタは少し不安を感じていた。

 

「ああ、それでな、この前、ユージがうちの店に夜中、結構、遅い時間だったな。そうだ、先々週あたりシェフがしばらく休んだろうよ、あのあたりか。ん?」
大将は、慣れないスマホのカレンダーを見ようとするが、老眼鏡をどこにしまったのかと、胸ポケットやら、カバンやらを漁り始めた。

 

「で、そのころ、なに?」
オオタが急かした。

 

「ああ、それでな、お前のことを訳のわからん経営者だとか、人使いが荒いとか、シェフの使われ方は特に酷いだの、チューヤンの将来を考えてやってんのか…とか、まあ、次から次へとまくし立てるように言うもんだからな…」

 

大将は、今度は、椅子から立ち上がって腰ポケットを触わりながら、やっと自慢の老眼鏡を見つけた。

 

「あった、あった、これいいぞ、ハマダルーペ。ぐにゃっ、てなるからどこにあるんだか、いつもわからなくなるんだよ。ハハハ。」
照れ隠しで、老眼鏡を天井の照明に透かした。

 

「で、それで!」
オオタは、さすがに苛立ちを隠さなかった。

マダムが場を元に戻そうと割って入った。

「でも、ユージ君にしては、珍しいわね、そこまで言うなんて。普段の仕事ぶりにはあまり私、感じないんだけど…」

 

「で!言うもんだから、どうしたのよ、大将?」

 

「お前の今の話をしてさ、オオタはいいやつなんだぞって…ユージのことたしなめたんだよ。なんかあったんだろうなあの夜…相当な感じだったよ。」

 

「大将も口軽いわね…ほほほほ。」マダムが笑った。

 

「あきれた大先輩だな…もう」

しかし、オオタには、大将に悪気があったわけでなく、自分を思ってのことだと心の底では理解していたので、それ以上、その件について責めることを止めた。

 

そして座り直して二人に向いた。

「で、ちょっと今日は、折り入って相談したいことがあるんですよ。真面目に。」

大将とマダムが椅子に座りなおしてオオタに向き合った。

f:id:sanpouji:20190408143622j:plain

 

(11)思い出のかけら

 オオタは3人での宴席を終えた。時計を見るとすでに零時近かった。オオタの自宅は、メール・ドゥ・ノルドから地下鉄を1回乗り換えた3つ目の駅にある。直線距離ならわずかなものなのだが、間に大きな都立の庭園があり、それを外周しなければならない。昼間は、わずかなお金を払えば中を通ることができるので、季節がいい頃にはゆっくりと歩いたりする。運よく、今夜は周辺の道路がセットバックの工事の関係で封鎖され、特別に夜間開園しており、歩道として通行できるようになっていた。当然のことながら、夜、オオタがここを歩くのは、初めてだった。

〝大将があの話を持ち出したお蔭で、いろいろなことを思い出してしまった。〟

夜の庭園を歩きながらオオタの頭の中には、アルバムをめくるように当時の思い出が蘇ってきた。

 

 

f:id:sanpouji:20190408180546j:plain

 あの幸せを実感した小さなバースデーから1年ほどしたころの冬のある夕方。オオタが、いつものように女のアパートを訪ねると、女は、部屋の暖房もつけずに、テーブルの前に座っていた。隣の部屋からは小さな寝息が聞こえていた。襖の隙間からは、少しだけ温かい空気が流れ出ていたのを覚えている。

 

「どうしたの?寒くないの?」

オオタは、アルバイト先の客からもらったという新潟の手土産をテーブルの上に出しながら声をかけた。

 

「・・・・」女の目は、沈んでいた。

 

「これな、<河川蒸気>っていうお菓子でさ、新潟のやつ。懐かしいなあ、意外に美味しいんだよ。お茶煎れようか」
オオタは、場を繕うように会話を繋いだ。

 

「いつか、こういう日が来るのかな…って思ってたんだよね」
女はやっと口を開いた。

 

 そして、オオタに1通の封筒を見せた。そこには、女の宛名があり、切手には「松江中央郵便局」の消印があった。女は、その白い封筒をオオタに差し出した。

 

「読んでいいの?」

 

 中には2枚の便箋、2枚の写真、あと名刺が1枚封入されていた。写真には女が〝その子〟と2人でいつもの池の公園のベンチに座っているもの、そして、同じ場面で〝その子〟の顔にフォーカスしたものだった。

 オオタは便箋に目を移した。1枚だけの短いもので、一枚は白紙だった。そこには、女を丁寧に気遣う言葉と手紙を出すことになった経緯、そして末尾に二つの質問が書かれていた。
 

 オオタは、最後に名刺を見た。聞いたことのない名前だった。「株式会社ワイズフード 代表取締役 山本義一郎」とあった。そして、女はこの手紙の差出人が、〝この子〟の実の父親だということ、そしてこの男には妻子があるということをオオタに伝えた。
山本義一郎からの問い掛けは、2つだった。


「〝その子〟が自分の子供でないのか」そして「松江で暮らす気持ちはないか」の2点だった。

 

 山本義一郎は、5年前から仕事の合間に女の行方を追っていた。そして、やっと居所をつかんだのは、2年前のことだった。しばらく女の様子を静かに見守っていたが、徐々に〝その子〟が自分に共通な何かがあることを動物的に感じ取るようになっていた。また女の生活が決して楽でない様子を窺い知っていた。

 

「松江なんて行かないだろ?今まで通りでいいよな…。」

 

 オオタは、女の反応をすがるような思いで見ていた。女が座っている椅子の下のバックから、もう一通、定形外のやや大きめの鶯色の封筒が顔をだしていたことにオオタは気づかなかった。

 

 その後、オオタがアパートを訪ねる頻度が少し減るようになった。今、新しい作品に取り組んでいるとか、アルバイト先の仕事が忙しいとか、正社員にならないかと言われていて色々と大変だということを理由にした。

 世間はバブル崩壊後の〝失われた10年〟という暗い時代だった。オオタ自身、自分の身をどうしていくのか迷いの中にいた。それでも、女と〝その子〟だけが生きる上での支えであり、励みであったことは、あの中央線の夜からずっとブレていなかった。

 3週間ほど過ぎた週末、オオタは、ある決心を持って久しぶりに女の部屋を訪ねた。オオタは、実家から送られてきたという数キロの新潟米を担いでいた。鉄製の外階段が少し長く感じた。通路側にあるキッチンの窓から甘い醤油の香り、そして女が鼻歌でいつもの「数字の歌」を歌っているのが聞こえた。

 ドアを合鍵で開けた。

 

「ああ、久しぶりだね、元気だった?あー、お米だ。うれしい。重かったでしょ?そこに降ろしていいよ。ありがとう。」

 

 その日の部屋はいつもの通りに暖かかった。女は何事もなかったように普段の笑顔だった。〝その子〟が小さな笑顔で奥の部屋から飛び出してきて、オオタの足元に抱き着いてきた。オオタがしゃがみ込んでそれに応えた。

 食事の間、二人は近況を話した。わずか3週間だったが、お互い長い気もしたし、短いようにも感じていた。

 

「絵はどう?進んだ?」

「でもね、今の時代に忙しいことはいいことよね」

女は、いつも以上に明るく何かを吹っ切れたように話していた。楽しい食事の時間が過ぎた。

 

「さあ、今日は帰ろう。明日も早いし…」

 オオタは、伝えようとしていた決心を言えぬまま、帰るべき時間になってしまった。しかし、オオタが、この夜、心のどこかに小さな安心を得たのも事実だった。オオタは、椅子にかけていたジャンパーを掴んだ。

 

「そう、じゃあ、2人でそこまで送るよ」

 女も立ち上がり、〝その子〟に子供用の椅子から降りるよう促した。アパートから大通りまでは、歩いてものの5分ほどだった。〝その子〟を間に挟んで左に女が、右側をオオタが歩いた。


「数字の2は、なあーに」女が歌った。

「お池のガチョウ」〝その子〟が続いた。

「ガー、ガー」オオタが、明るく鳴いた。

 

 大通りに出ると道路を挟んで歩道橋があり、3人はいつもここの上で別れる。3人は、いつもの場所で歩みを止めた。

 

「じゃ、ここで。」
オオタがいつもと同じ別れの挨拶をした。

 

「オオタさん、」女の表情が変わっていた。

 

「なに?」

 

「私、松江に戻ることにした。」

 

「えっ?どうして?」

 

「いろいろと考えたんだよ。あなたのこと、〝この子〟の将来のこと、自分のこともね。それにもうすぐ小学校だし。」

 

「それなら…、だからね…」と、オオタが一瞬割り込んだが、女は制するように続けた。

 

「今って、凄い幸せだと思ってるよ。それだけは信じてて。でも、あなたには、私たちを支えるのは荷が重いと思うの。こんな時間がずっと続くわけないじゃない。」

 

「ターコ……」

オオタは、喉の奥に何かがつっかえて、名前に続く言葉が出てこなかった。

 

「楽しかったよ5年。来週には松江に帰る。だから今日を最後にしよう。」

あまりに突然でなんの余地もない別れだった。

オオタは、天地がひっくりかえるような感覚の中にいた。

〝その子〟の手が左手から離れた。女が今来た歩道橋を降りていく、そして闇の中に帰

っていった。

 

「数字2は、なあーに…」

 闇の中で車の走る音で歌声がかき消された。女は、左手の小指で右目からこぼれた一粒のしずくをぬぐった。

 

 アパートの玄関には、ズシリと置かれたままの新潟米の袋。それは二人が降ろした大きな思い出でもあり、これまで抱えてきた荷物の大きさにも似ていた。その横の郵便受けには、新たに届いたもう1通の鶯色の封筒が入ったままだった。

 

 あの中央線の夜から6度目の冬が始まろうとしていた。

オオタ31歳、マスダタエコ30歳、イツキは5歳の誕生日を控えていた。

 

f:id:sanpouji:20190408143659j:plain

 

 オオタは、いつしか園内のベンチに腰掛けていた。いい月夜だった。桜の蕾が少しずつ膨らみ始めているのをボーっと眺めながら、すべての記憶を細かく集めてできるだけ確かなものにしようとしていた。

 足元に早咲きの河津桜の花びらが、どこからともなく飛んできて、オオタの革靴の先に止まった。花びらが、あの日見たイツキの小さなコッペパンのようなピンクの靴に思えて、ベンチから立ち上がった。

 そして、公園のもう一方の北側の出口へ向かって歩き出した。

 

「数字の2は、なあーに…」

オオタは、苦手な歌を口にした。

 

「お池のがちょ…」

一息で歌おうとしたのか声が続かない

 

「ガッ、ガッ…」

むせて小さな咳と涙が同時に出た。

 

オオタの胸の内を見透かすように星々が降っていた。

 


ハッピーエンド / back number (cover)

 

 

 

 

眼鏡とベストとギンガムチェック(15)-霞の章Ⅳ

f:id:sanpouji:20190104150655j:plain


ご返信ありがとうございました。
申し訳ありませんが、急に海外出張の予定が入ってしまいました。
帰国後早急にご連絡申し上げます。新島

 
新島に会う決心をして、送ったメールの返信は、あっさりと武の出鼻をくじいた。
待つしかない。美佐はどうしているだろう。じりじりと無為に日が経った。
新島が帰国したと言ってきたのは1か月後、武がすっかり憔悴した頃だった。
日時と南青山のファミリーレストランを指定し、
「少々遅れるかもしれません。私は紺のベストを着ていきます。声をかけてください」と書かれていた。

新島俊彦。紺のベストを着た男。
少なくとも、まっとうな出立ちの男。
やっと次の段階にいけるという安堵感もすぐに消えた。
もしかすると、後ろに「やばい人」がいるかもしれないな。
詐欺の組織とか、仲間の若造に囲まれて金だけ奪われるとか。
会う日の前日、職場で介護ベッドの資料を整理するふりをしながら、武は嫌な妄想に囚われていた。
俺は相当やられているらしい。

 

f:id:sanpouji:20190408113032j:plain


 
「一ノ瀬さーん。なんか食べ物持ってないっすか?」
後輩の藤木が寄ってきた。
「僕、腹減って痩せちゃいそうなんですよ」
痩せろといいたくなる巨漢。しかも強面。
何故か武に懐いている。

「そうだ!藤木さ、明日の夜空いてないか?夕飯おごってやるよ。ファミレスだけどね。デニーズ青山」
「え?いいんすか?デニーズ最高ですよ。うれしいなあ」
「俺、ちょっと人と会うんだけど、お前、離れたところで飯食べててさ、もしも俺が合図したら、来て、ちょっと凄んでほしいんだ」
「すげー!僕、そういうのやってみたかったんですよ」藤木は目を輝かせた。

とにかく用心棒ができた。外回りのついでに銀行へ立ち寄り、100万円を下ろし
思いついて、美佐から渡された封筒の札を新券に両替した。
封筒に入れたまま数えもしていなかったが、200万円もあった。
深い溜息が出た。必ず明日だ。新島とどんな話になろうと、その足で返しに行く。
金曜の街の賑わいを横目に帰宅した。軽い夕食を取り、風呂に入り、
少しウイスキーを飲んでベッドに入る。眠れそうもない。

着信音が鳴って藤木からメールが来た。
「どれ着ていったらいいですかね?」自撮り写真が3枚添付されている。
龍の刺繍のスタジアムジャンパーにニッカポッカ姿。
ヒョウ柄のセーターにヒョウ柄のマフラー。
真っ白いスーツにゼブラ柄のシャツ。
どれも黒いサングラスをかけて、金のネックレスをしている。
…こいつ何者なんだ。
「4番目」と返信した。写真を見て笑っているうちに眠りが訪れた。

f:id:sanpouji:20190408113107j:plain


南青山のファミリーレストラン
夕食には少し早い時間帯のためか、庶民感覚がこの地には穴場なのか、客は数組しかいない。
奥の席を案内され、入口を向いて座る。
間もなく黒い塊の客がやってきた。藤木だ。
光沢のある黒いスーツに黒いシャツと黒いネクタイ。
もちろん、黒いサングラス。片耳にイヤホンを差し込んでいる。
ひょっとして、SPかなんかのつもりか?
及び腰の店員に、武の2つ斜め前の席を頼み、向い合って座ると、子どものように手を振った。
 

コーヒーをひと口飲んだとき、紺のベストの客が入ってきた。
武は立ち上がって手を挙げた。「一ノ瀬です」
男は頷いてテーブルに着く。「新島です」

淡いダンガリーのボタンダウンシャツに、ざっくりしたニットの紺のベスト。
やや長髪、端正な顔立ち。歳は仁兄と同じくらいか。チェロでも弾いたら似合いそうな男。
腕時計は茶色のストラップのオメガ。
それをちらっと見て、「お待たせしました。早速ですが」と言って目を合わせた。

「仁さんとは、友人の飲み会で知り合いました。大学の友人が、異業種交流みたいなことを考えて、人集めしたんです。3年くらい前です。
仁さんとは、私の仕事の話で盛り上がりましてね。あ、商社務めなんですが。アパレルの実情とか、私が詳しいものですから。
一ノ瀬さんが、新島さん、あなたいい仕事してますねって感心してくれまして。それから時々そのメンバーで飲んでいました」


新島は運ばれたコーヒーに口をつけ、優雅な手つきでフレームレスの眼鏡を外し、
バーバリーのハンカチでレンズを拭った。

「それが、だんだん人が変わったというか、暗くなったといいますか。
友人たちと、最近一ノ瀬さん変だね、と話していたくらいでした。
ある時、一ノ瀬 さんが珍しくずいぶん酔いまして。慰謝料に追われていると口にしたので、みんなで問いただしたんです」

仁兄は、勤め先のクリニックで骨折治療後のリハビリをしていた女性から、
恋愛感情を向けられるようになった。
穏便にかわしていたのが裏目に出て、ストーカー的に執心がひどくなり、
女性の親も一緒になって、騙された、詐欺だと逆恨みされ、慰謝料を払わされている。
職場も居づらくなったのか辞めてしまい、自暴自棄な生活を送っている。

それが、新島が語った仁兄の現状だった。

 人の命に関わるような事件かと思っていた武は、女性問題と聞いて、何となく拍子抜けした。
「まあ、お優しい方ですからね。女性からは、好意だと勘違いされることもあるでしょう」
お優しい方?武は新島に説明のつかない苛立ちを感じ始めていた。
「患者は、治療者にそういう感情を持ちやすいものです。仁叔父も知っているはずですから、大ごとになってしまったことの方が不思議ですね」
「問題は、あちらの親御さんが、あのー、面倒な方で」
わかりますね?と言いたげな顔をする。
新島の肩越しに、藤木が嬉しそうにステーキを頬張っている。
さっきまでオムライスを食べていたはずだが。
「親御さん」とは戦えないだろうな。

「いただいたメールに、友達に無心している、とありまして、驚きました。
 失礼ですが信じ難いんです。叔父はそういう人ではなかったもので」
「武さん、人は変わるものです。私たちも一ノ瀬さんを信頼していましたから、正直、残念で仕方ありません。
友人の一人は、仁さんが借金を返さないのを憤慨して、最近は過激なことも口にするようになっています。
武さんが、本気で、100万円の礼金と書かれたのかどうかはわかりませんが、
現実に問題になっている金額は、それどころではないんです」


武が黙っていると、新島はボッテガヴェネタのバッグからタブレットを出した。
「武さんが疑わしく思われるのも当然です。仁さんの最近の写真です」
内装の違う2軒のバーのようなところで撮られたものが5枚。
うつろな表情、髭も髪も伸びて、別人のようにすさんだ仁兄の写真だ。

「私は今日、仁さんの現在の住所を持ってきました。
武さんがブログで書かれたとおりに、100万円と交換しても構いません。
ただ、仁さんはそういう状態ですから、あなたに会いたがらないと思いますし、
会っても、私がお話しした以上のことはでてこないはずです。
ですから、住所を知るよりも、仁さんを援助するか、既に憤慨している友人にそのお金を回して、これ以上状況を悪化させないほうが、得策なのではないでしょうか。
私が間に入って、穏便に、お金を受け渡しすることはできますから」

言いながら、クロコダイルのカードケースを取り出し、名刺を差し出した。
商社の名前と、「欧州アパレル事業部スーパーバイザー」の肩書きがある。

「実のところ、私も仁さんに少なくない額をお渡ししました。
でも、それはもういいんです。会社でもある程度のポストを任されて、それなりのペイもとっていますし、幸いに投資もうまくいっています。
ただ、友人が窮状に甘んじているのが、残念で、なんとか立ち直ってほしいと」

 
新島は、悲しげに目を伏せると、また眼鏡を外してハンカチを探る。
武は、テーブルに置かれた眼鏡をじっと見た。
テーブルに貼り付けられた、「ストロベリーフェア」のメニューを見た。
眼鏡のレンズ越しの、ウサギのイラストを見た。
なんでこの男は伊達眼鏡をしているんだ?

f:id:sanpouji:20190408113630j:plain


気に入らない。何もかも気に入らない。
自分は善人で金があると見せつけ、面倒な親と過激な友人という、危険な状況があると言っているわけだ。
そして、100万では終わらないことも匂わせている。
新島に待たされたのは1ヶ月。
それだけあれば、プロットを練って、名刺を作り、写真を加工することもできる。
武を焦らして精神を疲弊させることもできる。
新島は、確かに仁兄の知り合いだろう。
プジョーの話も、口癖も、知っていて不思議はない。
それを利用して、仁兄になりすましてメールを偽装することも、
慰謝料だの借金だの、でっち上げることもできる。
嘘か?俺が信じたくないだけか?どっちだ。
信じられないと席を立つこともできる。
でも、本当は本当だったのかもと、一生後悔しないか。

仁兄の友達は、豪快でさっぱりした男が多かった。
馬鹿げた理由で金を貸せなんて言ったら、真剣に喧嘩するような男たちだ。
そして、
武は、美佐が封筒を渡した時の、戸惑った不器用な手つきを思い出していた。
友達に金を渡す羞恥を、この上品ぶった男が知っているとは思えない。
この話を信じてはいけない。武の腹の底が叫んでいる。
頭は、その根拠を見つけようともがいている。

美佐、美佐はどうして俺を信じた?
理由も聞かないで、何の条件も付けないで大金を出した。ただ、俺だというだけで。
俺が俺だという、それだけで。

武は組んでいた腕を解いた。天井を見上げて、その上にある空を思い浮かべる。
それだけでいいんだ。


「新島さん、その女性は何故仁叔父を信じなくなったんですか」
「はい?」
武は座り直して、新島を見据えた。
「どんな決定的なことがあったというんでしょう。ストーキングから、逆恨みに変わったのは。恋愛感情がいきなり慰謝料の話にはならないものでしょう」
「それはですね、ちょっとした、暴力といいますか」
「詳しく言ってみてください。仁叔父は、暴力をふるう人間ではない」
新島の目が泳いだ。
「もちろん、仁さんは暴力的な人ではありませんが。えー、しつこくされたのを振払って、転倒させたそうです」
「故意に?傷害事件ということですか?」
「いいえ、事件として警察沙汰になったわけじゃなくて。振払ったつもりが、ちょっと転んだだけで」
「ちょっと転んだ傷の慰謝料?」
「いいえ、つまり精神的苦痛ということです。たいした怪我じゃなかったんですが、女性が過剰反応しまして。そうそう、それがホームだったんです。それでトラウマになって外出が怖いとかで社会生活が送れないとか」
「ホーム…」
「駅のプラットホームです」早口になって続ける。
「で、女が、線路に突き落とそうとしたとか、殺そうとしたとか、大騒ぎして、それで口論になって」
「駅のホームで騒ぎをおこした、ということですか?」
「ええ。ちょうど通勤時間帯で、野次馬に取り囲まれて、大混乱になって、女がパニックになって。注意した駅員とも揉めたらしく。あ、でも、お調べになっても、電車の遅延はなんとか免れたんで記録は残ってないはずで…」

 
ペラペラ喋り続ける新島が遠くに見える。
仁兄、今ごろ、どこで何をしている?
俺は今、テープを切ったよ。
武は首を振って新島を制した。
 
「新島さん。これは、仁叔父の話ではない」

俺たちは正しい乗り鉄ですから。それは声に出さない。教えてやるもんか。
新島の顔から色が消えた。
新島の向こうで、藤木が武を見て、メニューを指差し首を傾げている。
もっと注文していいかと聞きたいのだろう。声を張って答えた。
「端から食っていいぞー」
新島は武の視線を追って振り返り、藤木を見て腰を浮かした。

眼鏡とベストとギンガムチェック(14)-羽の章Ⅲ

f:id:sanpouji:20190104150655j:plain

第14章

 

 

 

 妻の櫻子のスマホ帝都大学駅伝部の同期の波野辰次郎から突然の電話が入り、秀幸に変わると「秀に会いたい…」との用件だった。

 まだ秀幸は、辰次郎を含めかつての駅伝メンバーに会える心の準備ができていなかったので、「仕事が忙しくて…」を理由に会うことを拒み続けて1か月弱が経過した。しかし、再三辰次郎から連絡が入り、ついには「秀に渡したい物と会わせたい人がいる…」と思いもよらない切実な言葉に、乗る気ではないながらもやむを得ず会うことを約束した。

 

 2月もあと数日で終わろうとする春まだ遠き寒いある日のこと。辰次郎から指示のあった店の最寄り駅に着いた。この駅は秀幸にとっては、かつて高校の3年間と大学の4年間の計7年間、通学のために乗り降りした駅だった。卒業して以来30年来ていない駅だったので、駅舎はもとより駅前の風景は秀幸が知っている風景とは全く変わってしまっていた。

 

 辰次郎から指定のあった店は、駅前商店街にある中華料理屋『スイセイ』だった。ここは学生時代の7年間数え切れないほど通った店で、部活後の食欲旺盛の男子のスタミナ源になっていた。ここも大学卒業以来の訪問であった。

 秀幸は駅から徒歩5分圏内にあった店だと記憶していたが、駅前の様子の変化に探すのに一苦労だった。慣れないスマホの地図アプリを頼りにたどり着いたが集合時間より10分遅れてしまった。

 

 「いらっしゃい!」と若い女性の声が掛かった。

 

 「あら、秀ちゃん。久しぶりね…箱根駅伝大会で秀ちゃんがあんな風になってしまって、とてもおばちゃんも朋子も心配したのよ…」と店の奥から年老いた背の低い白髪まじりの女将と秀幸と同世代の娘の朋子が皿洗いをしていた手を止めて秀幸に近寄りながら話しかけて来た。

 

 「あ…女将さん、朋ちゃん…大変ご無沙汰しております。心配かけて悪かったね…ごめんよ。今はすっかり大丈夫。2人ともお元気でしたか?」秀幸は2人を見つめた。

 

 「私は81歳になってしまったけど、なんとか生きているわよ。」と女将が答えた。

 

 「マスターは?」と秀幸が辺りを見回した。マスターとはこの女将の夫で、以前は厨房で中華鍋を振っていたが、今厨房で背中を向けている男はどう見ても自分が知っているマスターとは違うと感じた。

 

 「主人は、数年前にガンで亡くなったのよ。今は朋子夫婦にこの店を任せて私は忙しい時だけ手伝うようにしているのよ」と学生時代に通っていた頃の元気の良い女将に比べて、年のせいか元気がないように感じた。

 

 「厨房で調理しているのはどなた?」と秀幸は聞いた。

 

 「あれは、私のダンナよ。後で秀ちゃん達に紹介するわ…」と朋子は微笑みを浮かべて厨房へと戻った。

 

 視線を右に向けると奥のテーブルから「こっち、こっち」と手招きする男は、学生時代とちっとも変っていない辰次郎とひと目で分かった。

 

 「辰はこの店にはよく来るの?」と秀幸は女将に聞いた。

 

 「まあ、ときどきね…。さっきから秀ちゃんのこと待っているから、早く行ってあげて…」と秀幸の背中を手で軽く押してくれた。

 

 「いい加減早くこっち来い!10分も遅刻したうえに、いつまでそっちでしゃべってるんだよ!」しびれを切らした辰次郎が立ち上がって秀幸を呼んだ。

 

 「相変わらず、辰はせっかちな奴だね…」と秀幸が女将に同意を求めようとすると、女将もはニコニコと笑いながら「どうぞごゆっくり…」と店の奥へ行った。

 

 秀幸が椅子に腰かけるやいなや、辰次郎が「何飲む?ビール?」と聞いてきた。

 

 「俺はノンアルビールでいいよ…」

 

 「秀は酒が飲めないのか…。朋ちゃん!生中とノンアルビールをお願い!あと、いつものおつまみと焼き餃子を各2人前ね…」と辰次郎は注文をした。

 

 しばらくして朋子が生ビールの中ジョッキとノンアルコールビール、さらにこの店一押しのつまみのチャーシューを運んで来た。

 

 「うわっ!このチャーシュー久しぶり!」と秀幸は割りばしを即座に割って一口食べると、

 

 「美味い!女将さん、全然味変わってないよ」と言うと、奥で椅子に座っていた女将が笑いながら手を振っていた。

 

 「じゃあ、30年ぶりの再会に乾杯だ。」

 

 グラスが軽くぶつかる音がした。

 

 「秀、久しぶりだなあ…あのアクシデントが起こった昭和64年1月3日の箱根駅伝以来だよな…。あれからどうした?…今は元気なのか?…さくちゃんといつ結婚したの?…幸せ?…子供はいるの?…今どこに住んでるのよ?…仕事は?…」

 

 機関銃のような辰次郎の質問攻めに、秀幸はめまいや頭痛がしてきた。「あ…やっぱり来なきゃよかった…」と思いながらも、辰次郎のこういうしゃべり方は以前と全く変わっていなかった。

 

 秀幸は30年前の箱根駅伝のレースで倒れてから今日までの身の上話をした。

 

 「ふ~ん…そうだったか…。秀も大変だったな…。あの時の駅伝メンバーで30年ぶりに再会する最初の人が俺とはね…。誠に光栄ですな…」

 

 辰次郎が最初のビールを飲み干したが、秀幸はまだ一口しか飲んでいなかった。

 

 「朋ちゃん、同じの!」と辰次郎が空になったビールジョッキを朋子に向けて高らかに上げた。

 

 「は~い!…いらっしゃいませ!」と朋子の声が再び店内に響いた。

 

 ふと秀幸が入口を見ると、大きめのサングラスをかけた50代の男性が店に入って来た。50代の男は秀幸の方をチラッと見たが、すぐにカウンターに座った。

 店内はすでに満席状態で、「相変わらず人気のある店なんだな…」と秀幸は思った。

 

 「でもな、秀が思っているほど、あの時お前がゴール直前で倒れて、初優勝を逃したことなんて、最初から誰もなんとも思っちゃいないよ…。秀の昔からの悪い癖…考え過ぎ…。むしろ、あの時はむちゃくちゃ、みんな秀のことを心配したんだぜ。俺なんか秀が死ぬんじゃかと思ったよ。病院に行きたくても意識不明の重体だから面会謝絶だし…意識が戻っても、秀が大学の駅伝関係者には会いたくない…とかで、そんなんだから、その後はみんなも会いづらくなってしまって…。誰とも会わずじまいの30年で今日に至っているという訳よ…」

 

 辰次郎が運ばれて来た2杯目のビールを口に付けて、泡が上唇に付いたのをおしぼりで拭き取った。

 

 「そうか…。みんなは俺の事そんな風に思っていたのか…。でもな、俺の立場に立てば、あれほど死に物狂いに毎日練習して、やっとの思いで取れた箱根駅伝への出場資格だよ…。いざレース本番になったら、5区の夏雄が5人ごぼう抜きの区間新記録で往路優勝を果たし、復路はスタートから9区の辰まで1位独走で鶴見中継所まで来て、俺に襷を託された。帝都大学駅伝部初出場、初優勝を目の前にして、無残にも俺はゴール前で倒れた…。こんなみっともないストーリーがあるか?どの面下げて、みんなに会えるよ…。仮にみんなから慰められても、それはそれで余計心が痛むよ…」

 

 「まあなあ…その立場に立てばな…」と辰次郎はチャーシューと焼きたての餃子を食べながらしみじみと語った。

 

 「その話は止めようぜ。ところで、さくちゃんは元気か?あいつも附属高校から大学まで俺達と一緒だったからな…。よく俺達とつるんで遊んだよ…。可愛かったよな?俺はてっきりイケメンの夏雄と一緒になると思っていたのに、秀とさくちゃんが結婚するなんて想像もつかなかったぜ。」

 

 秀幸は櫻子とのなれそめを話し始めた。

 

 「へ…。さくちゃんだけは心許して会っていたのか?…。秀の心情と体のことを心配して、懸命に看病している内にお互いに恋心が芽生えたってやつか?ん?…。まあ、せいぜい彼女のことを大切にしろよ…」と辰次郎が秀幸の肩を叩いた。

 

 「ところで、辰は卒業して以来どうしていたんだ?」と今度は秀幸が辰次郎の様子を聞いた。

 

 「俺か?…俺にもいろいろあってな…。知っての通り、大学卒業当時は世の中がバブル経済真っ只中だったろ…就職なんていくらでもあった時代だ。お陰様で俺は四大証券会社のひとつに就職した。土地や株の値段がバンバン跳ね上がっていく時代だよ。億単位の金が右から左へ、左から右へと毎日流れていく。億単位の金銭感覚がおかしくなってきたね…。毎晩、銀座、六本木の高級クラブで資本家やビルオーナー相手にドンペリやロマネコンティを開けていたよ。

 しかし、しょせんバブルはバブル…。バブル崩壊とともに金融機関は貸し付けたお金が焦げ付いちゃった訳よ…。そうなると損失隠しをするんだけど、そんなことはすぐにバレて、結局経営破綻で平成9年にうちの会社は廃業してしまった…。覚えているだろ?『私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから…』って、立ち上がり号泣しながら記者会見した社長…あれうちの社長だから…。

 元四大証券の敏腕営業マンだからすぐに再就職先が決まると思いきや、どこも雇っちゃくれない…。ようやく片田舎の信用組合に就職できたけど、上司との折り合いが悪くってねえ…3年で辞めちゃったよ。

 人並みに結婚もしたんだぜ。子供も2人出来てさあ…。でも10年前に離婚しちゃったよ…。勘違いすんなよ!俺の浮気じゃないからな…。子供の親権はカミさん側。今は大手不動産会社の下請けで、練馬で小さなビル管理会社の社長をしているよ…。もっとも社長と言っても従業員は2人だけどな…。わがままなビルオーナーや店子のクレーム処理に毎日都内近県を動き回っているよ…」

 

 秀幸は辰次郎の大学卒業から30年の経歴をニコニコと笑いながらしゃべってはいるが、「あ…こいつも苦労したんだな…」と感じた。


 

f:id:sanpouji:20190321100102j:plain



 「ところで、俺に会わせたい人がいると言っていたけど…」と秀幸は場の空気を換えた。

 

 「おお…そうだ、そうだ!忘れていた。おい!気取ってサングラスをかけてカウンターに座っているおっさん、こっちへ来い!」と突然辰次郎が立ち上がった。カウンターに座っていた男は飲んでいたビールジョッキとおしぼりを持って、こちらのテーブルに近寄ってきた。

 

 「辰は相変わらず話が長いな…。待ちくたびれて酔っぱらっちゃったよ…」と50代の男は辰次郎にボヤきながら、サングラスを取った。

 

 秀幸がまじまじとその男の顔を見ると、

 

 「ん…?伸一か…?」

 

 「おお…秀。久しぶりだね…。」

 

 守田 伸一。伸一は秀幸や辰次郎、夏雄と同じ帝都大学附属高校から帝都大学卒業まで学校がずっと一緒だった同期生である。

 4人は帝都大学附属高校の1年生の時に陸上部で出会い、お互い長距離ランナーで切磋琢磨した仲だった。部活以外でもよくつるんで遊んだ気心知れた親友だった。

 高校卒業後、4人はエスカレーター式に帝都大学に進学し、迷わず駅伝部に入部し、箱根駅伝出場を目指して毎日死に物狂いで練習に励んだ。

 大学4年生の時にようやく箱根駅伝の予選会で出場資格を勝ち取り、昭和64年の第65回箱根駅伝の正選手10名枠に秀幸と辰次郎、夏雄、そして伸一らが選ばれた。監督から伸一は往路の1区を、夏雄は箱根の登りの5区を、辰次郎が復路の9区を、秀幸が最終区の10区を走るように指示された。4人はともに喜び合い、必ず総合優勝を成し遂げようと誓い合った。

 

 伸一が秀幸に握手を求めてきた。秀幸は目をパチパチさせながら「あ…あ…」としか言葉が出ず、状況が飲み込めないまま、伸一と握手をした。

 

 「辰、これはどういうことだ…?!」秀幸は、まためまいと頭痛がしてきた。

 

 「ちょうど伸一が東京へ出張に来ると言うんで、今日ここに呼んだのさ。まずは改めてみんなで乾杯しようぜ…」とグラスが鳴る音がした。

 

 秀幸はようやく状況が飲み込めた。辰次郎が伸一に、「秀にお前の現状を聞かせてあげてよ…」と言われたので、伸一は身の上を話し始めた。

 

 「僕は君達たちと同じ平成元年3月に大学を卒業して、新聞社に就職した。最初の赴任先が阪神支局に配属となったが、平成7年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生した。今までに経験したことのない揺れだった。惨事は君達の記憶にも残っているだろ?…。

 僕はただただ地獄絵図に呆然とするだけで、新聞記者として状況を正しく伝える記事が書けないし、苦しんでいる人を目の前にしてなんの役にも立てずにいた。

 そんな自分は自己嫌悪に陥り、いわゆるうつ病になってしまい、新聞社を辞めてしまった。その後はあらゆることにやる気が失せてしまい、神戸で引きこもり生活が1年続いたんだ。

 新聞社の時の上司が僕を心配してくれて、「自分の実家は北海道で弟が畑や田んぼで農作物を生産しているが、そこに行って気分転換でもして来いよ…」と言ってくれて、自分も「このままじゃいけない…」と思って誘いに任せて弟さんがいる北海道へ赴いたんだ。

 そうしたら、自分に農業が合っていることが分かって、土いじりや酪農が楽しくなってしまい、以来北海道で農業や酪農に従事しているんだ。

 初めて自分が生産した米やジャガイモ、人参をここスイセイのマスターに食べてもらおうと北海道からカバンに入れて持って来たんだ。マスターが「こりゃ、美味い!」って言ってくれて、それ以降僕の作った農作物を直接注文してくれるようになったんだ。今じゃ、北海道はもとより全国に知られる会社になったんだぜ。秀が持っているスマホで『伸一ファーム』って検索してみてよ。」

 

 早速、秀幸はスマホで検索してみた。伸一ファームが北海道で多角化経営をしており、広大な土地で農業、酪農を営んでいることが書かれていた。

 また、その敷地内の工場では生産された野菜や乳製品の加工食品まで手掛けており、北海道の定番のお土産商品としてSNSで評判になり、道内の各空港やターミナル駅で売られている。その中でもチーズケーキは絶品と評され、秀幸でさえ知っているほどの有名な商品だった。それが伸一の会社で生産されていたとは知らなかった。

 

 「へ…伸一もたいしたもんだな…」と秀幸は感心した。

 

 「おい!伸一、このサイトに写っているお前の写真、着ているベストって、あのベストか?」と辰次郎は秀幸が持っていたスマホをのぞき込んできた。

 

 「おっ、気が付いてくれた?」と伸一が言った。

 

 「これって、伸一の実家の洋服屋で、伸一の親父さんが数を間違って問屋からベストが大量に納品されてしまったやつだろ?こんなにあっても売り尽くせないからって、俺達の箱根駅伝大会出場を祝って、出場メンバーにくれたんだよな?…。4人でこれを着てナンパしに出掛けたけど、周りから気持ち悪がれてさあ…、でも夏雄だけがモテたんだよな…、懐かしいベストだな…。伸一は今も着ているのか?」と辰次郎が思い出したように語った。

 

 「今じゃ、このベストはうちの会社のユニフォームなんだよ…」と伸一が自慢気に行った。

 

 「俺このベストどこにしまっただろうか…?帰ったら探してみるよ。秀幸はこのベストは今も持っているのか?」と辰次郎が唐突に聞いてきた。

 

 実は秀幸は今もタンスにしまってあり、ときどき着ているが、恥ずかしさもあって素直に「あるよ…」とは言えなかった。

 

 「今度は夏雄もこの店に呼んでさあ、みんなでこのベストを着て集まろうぜ!」と辰次郎が提案をした。

 

 「朋ちゃん!今度は水餃子。それとハイボール…。これとこれとこれをちょうだい…」と辰次郎はテーブルにあったメニューを指さして注文をした。

 

f:id:sanpouji:20190321100458j:plain

 

 「夏雄で思い出したけど、夏雄から手紙が届いたぞ…。君達にも届いているだろ?」と伸一がおもむろにカバンから白い封筒を取り出した。表には『守田 伸一 様』、裏の差出人には『帝都大学 駅伝部 監督 堀越 夏雄』と書かれていた。

 

 「俺にも同じものが届いているぞ…」と今度は辰次郎がカバンから封筒を取り出した。

 

 「この手紙、秀にも届いているよな…?」と辰次郎が秀幸に聞いてきた。

 

 「………」秀幸は返答に詰まった。よもや「失くした…」とは言えなかったからだ。

 

 秀幸の困惑した顔を見て、辰次郎がクスクスと笑い出した。

 

 すると、辰次郎がカバンの中からクリアファイルに入った同じ白い封筒を取り出した。それには表に『寺嶋 秀幸 様』と書かれていた。

 

 「あっ!それは…!なんで辰が持っているんだ?」と秀幸は大きな声を上げた。そのせいで奥にいた女将が心配そうに店内に出てきた。

 

 「おい!秀、乱暴な言い方するなよ!どうして俺がこの秀宛の封筒を持っているか今説明してやるからよく聞けよ。」と辰次郎は前のめりになって語り始めた。

 

 「秀は1月に帝都大学病院へ行く際にこの封筒を持って出かけただろ?しかし、秀はこの封筒を知らぬ間に病院内で落としたんだよ。それを偶然に拾ったのが、帝都大学の現役学生で元駅伝部の青柳 翔太 君という青年だったんだよ。その翔太青年はその封筒の差出人を見たら、自分が元いた駅伝部で、今年我が校の初の総合優勝を成し遂げ、今や時の人となっている駅伝部 監督の『堀越 夏雄』と書かれていた。

 一方、宛名には30年前に我が校の箱根駅伝大会初優勝目前のゴール前で倒れた伝説のランナー『寺嶋 秀幸 様』と書かれていたので本人びっくりよ。

 この名前を見てしまった以上その封筒を放置するわけにもいかず、かと言って自分から大学の駅伝部監督室を訪れて夏雄に会って返すこともできず、困り果てた挙句にそれを持って病院を出て、なじみのお店『サケトマス』に行って店の大将に相談したそうだ。偶然にも俺も『サケトマス』の常連客で、俺が帝都大学の駅伝部OBだったことを知っていた大将は俺に連絡して来て、巡りめぐって今日このように秀の手元に無事に戻って来たということだ。

 感謝されることはあっても、乱暴なこと言われる覚えはないぞ!…」と辰次郎がドヤ顔で言ってきたので、秀幸は「それは悪かった…」と平謝りをした。

 

f:id:sanpouji:20190321100623j:plain

 

 店内の客は秀幸達しかはおらず、厨房で中華包丁を研いでいた男が壁の時計を見て、厨房から店の外へ出た。

 外にかかっていた暖簾を片手に持ちながら店内に戻ってくると、「マジで辰の話はまどろっこしくて長いよな…。せっかくの熱々の水餃子が冷めちゃったじゃねえかよ…」とぶっきらぼうに男は暖簾をカウンターに置き、秀幸達のテーブルにずかずかと近寄って来た。

 

 「うるせぇ!お前こそもう少しメニューのアレンジを増やせよ!マスターの時代とメニューが全然変わってねえじゃねえかよ!」と辰次郎が立ち上がり男の襟をつかんだ。

 

 「おい!やめろよ。なじみの店で喧嘩するなよ!女将さんや朋ちゃんに迷惑が掛かるだろ!」と秀幸が止めに入った。すぐに振り返り「すみません。こいつ弱いくせに喧嘩っ早くて…」と言いながらその男の顔を見ると、

 

 「ん…?」と不思議がる秀幸は男が被っていたコック帽を取った。

 

 辰次郎と伸一はその光景を見て、ケタケタと笑い始めた。

 

 朋子がエプロンを外しながら秀幸のテーブルに近寄って来て、「秀ちゃん、その人誰だと思う?秀ちゃん達と同期で、帝都大学駅伝部で昭和64年の箱根駅伝大会に一緒に出場して、3区を走った長谷川 拓馬よ。今は私のダンナ様。」と語った。

 

 「あ…もう、訳わかんない!今日は今まで疎遠になっていた当時の駅伝メンバーがいっぺんにたくさん現れて来て、頭が割れそうに痛い!でも、どうして拓馬が朋ちゃんと結婚して、この店の厨房に立っているんだ?」と秀幸は2人に質問をすると同時に、何を思ったのか、辰次郎の飲みかけのハイボールを一気飲みしてしまった。

 

 拓馬は無言で秀幸の肩を軽くポンポンと叩いた後にカウンターから椅子を持ち、秀幸達がいるテーブルの横に腰かけて語り始めた。

 

 「俺は陸上が盛んな実業団にスカウトされた。平成4年のバルセロナオリンピックの10,000メートルに出場することを目標に、日々血のにじむような練習の日々を送っていた。しかし、日本代表の最終選考時にライバル選手に敗れてしまった。

 次の平成8年のアトランタオリンピックを目指したが、歳を重ねるたびに体力と気力が落ちてくる。結局アトランタオリンピックへの出場は諦めてしまい、それと同時に現役を引退したんだ。幸いその会社の営業部に配属になったんだが、知ってのとおり愛想のない男だろ、取引先にペコペコ頭を下げるのが嫌でそれが原因でトラブルを起こし、責任を取って平成12年にこの会社も辞めてしまった。

 日本がいるのが嫌になって同年に単身ニューヨークに渡ったんだ。しばらくはニューヨークを拠点にバックパッカーとして色んな所を旅した。例えば、マサチューセッツ州の港町グロススタに行った時は、日本人相手のマグロ釣り漁船のアシストをしたりした。

 金がなくなるとニューヨークに戻って来て中国人が経営する中華料理店で皿洗いのアルバイトをして食い扶持をつないでいたが、平成13年にいわゆる『9.11』と言われているアメリカ同時多発テロ事件が起こった。ハイジャックされた2機の飛行機がワールドトレードセンター・ツインタワーの北棟と南棟にそれぞれに突っ込んで、両棟が崩れ落ちていく姿を見て、「こりゃ、大規模な戦争が起きる」と思い、日本に帰って来た。

 成田空港に着いて、スイセイのチャーハンが無性に喰いたくなって、その足でここに来た。そうしたらマスターから自分はガンで余命いくばくもないと告白されて、「じゃあ、俺がこの店を継ぐよ…」なんて冗談で言ったんだが、マスターが本気になって、「1人娘の朋子と結婚してくれたら、この店を拓馬に継がせてやる…」なんて言われて、俺は学生時代から朋子のこと好きだったから「朋子さんと結婚しますからこの店を継がせてください!」と思わず宣言したよ。

 それからは料理の専門学校の通いながら、数年間はマスターの元で修行させてもらった。ようやく料理人として一人前になって、朋子とも結婚した矢先にマスターは安心したのか、間もなくして容態が悪化して数年前に亡くなってしまった。」と拓馬が語った。

 

 「そうだったのか…」と秀幸はため息をついた。大学を卒業して30年、この間彼らは色んな人生を歩んでいた。しかし自分はというと、昭和64年の帝都大学駅伝部の初の総合優勝を逃したのは自分に責任があると勝手に思い込み、それを理由にこれまで駅伝関係者との関係を拒んでいた自分は、まるで30年前から時計の針が止まっているような感じがした。

 

 拓馬は椅子から立ち上がり、落ち込んだ様子の秀幸の肩を大きな手のひらでやさしく摩りながら、「秀、実は俺にも届いているぜ…」と言った。

 拓馬は続けざまに、サンダルを脱いで椅子に立ち上がって、店の上部に飾られていた神棚にポンポンと柏手を打ってから、そこにあった白い封筒を取り出した。

 

 同じ白い封筒がテーブルに4つ並らんだ。開封されていないのは秀幸宛の封筒だけだった。

 

 「中身はなんて書いてあるんだ?」と秀幸は目頭を指で押さえながらみんなに聞いた。

 

 「そんなことは自分で確かめろ!」と辰次郎と伸一、そして拓馬から同時に言われた。

 

 「中身を見ていないのは秀、お前だけだと思うよ…」と辰次郎が皮肉交じりに言ったので、秀幸が自分の指を封の間に入れて、無理に開封しようとしたので辰次郎が、

 

 「おい!そんな乱暴な開け方したらダメ!ダメ!この手紙には夏雄の熱い気持ちがこもっているんだから…。うちに帰ってからはさみとかで丁寧に開けなさい!」とまるで親が子供を諭すように言った。

 

 「さあ、もうとっくにこの店の看板時間を過ぎているよ。本日はこれにてお開き!朋ちゃん、お会計して!」と辰次郎が言いながら飲みかけのハイボールを飲もうとグラスを持つと空だったので、「あれ?誰か俺のハイボール飲んだ?」とつぶやいた。

 

 会計を済まし、秀幸、辰次郎、伸一の3人は拓馬と朋子、そして女将にお礼と別れを告げ、各自は家路の途についた。

 

f:id:sanpouji:20190321100836j:plain

 

 秀幸の帰宅時間が遅いことを心配していた櫻子が寝ずに秀幸の帰りを待っていた。

 

 「ただいま…。遅くなってごめん…」秀幸が玄関を開けながら櫻子に言った。

 

 「お帰りなさい。ずいぶん遅かったわね…。たっちゃんと話が盛り上がった?…。あら?少し酔ってる?。お酒飲んだの?」

 

 「やむなく飲んでしまったよ。もう今夜は飲まなきゃやってられない状況だったからね…」とスイセイで起こったことをすべて櫻子に話した。

 

 「へ…。みんなこの平成の30年間で壮絶な人生を送っているのね…。でも出来過ぎたサクセスストーリーね…?」

 

 「だろう?俺もなんかド素人が作家を気取って書いた三流小説を読んでいるような彼らの身の上話を聞いていて、そう思ったよ…。あるいは夢を見ているんじゃないかと何度も自分の手をつねったよ。ああ…今でもめまいと頭痛がする…」

 

 「でも4人がスイセイで劇的な再会を遂げるなんて演出は、たっちゃんの演劇好きが講じたのかしらね?」

 

 「あいつなら、やりかねない…。無類の芝居好きだったからね…。でもある意味、辰のおかげで、当時の駅伝メンバーと今夜会えて良かったよ。長年の胸のつかえが少しは下りたような気がする。」

 

 「それは本当に良かったわね…。持つべきものは友ね…。ところで、今日話題となった堀越君からのあなた宛ての封筒は開封したの?」

 

 「まだ…」

 

 「まだ?…。あらいやだわ…まだ開けてないの?」

 

 「今日はもう心身共に疲れ果てたよ。飲めない酒を飲んだせいで、もう眠くて仕方ない。今日は読む気に全くなれない。風呂に入って寝るよ。明日開封する…」とその晩の秀幸はよほど疲れたと見え、布団に入りすぐに寝息を立てて寝込んでしまった。